2009年12月26日土曜日

「癖馬人生ー仏の命 煩悩即菩提」


平成21年12月26日

6月8日にご紹介した宗教法人「成友会」会長小笠原達氏の自叙伝が完成し、送られてきた。一気に拝読させていただいた。
在家仏教の指導者として生き抜かれてきた小笠原会長の赤裸々な人生が語られ、苦悩する人々の救済に奔走し、そして救われた人々の姿に、感動を覚えるすばらしい本に仕上がった。兄弟子である東寺の土口哲光強化部長が一文を寄せているが、この著書を『干天の慈雨』と評しておられる。『この自署は、尊い救いのバイブルとなり、十万の衆生の心が干からびている中で、「干天の慈雨」を求めるように待望していたものである』と。きっと、読者はさまざまな悩みを解く鍵を発見されるであろう。
発行 たる出版 06-6244-1336
  成友会道場 072-876-5070

2009年12月24日木曜日

西国 10~11番

平成21年12月23日

自坊に来客が、朝あったので、その足で10番三室戸寺から11番上醍醐をおまいりすることにした。さすがの花の寺も、サザンカがちらほら咲くのみで、色どりが乏しい時期だ。上醍醐は、お堂が落雷で焼失したので、現在は女人堂に祀られている。
駐車場脇で名物の「五大力うどん」をいただいたが、その箸袋に「食事五観文」は印刷されていたので、紹介する。
 一つには、功の多少を計り、彼の来処を量る。
 二つには、己が徳行の全欠をはかって供に応ず。
 三つには、心を防ぎ、過貪等を離るるを宗とす。
 四つには、正に良薬を事とするには形枯を療ぜんが為なり。
 五つには、道行を成せんが為に、将にこの食をうくべし。

四国 9回 52~59番

平成21年12月21~22日

西宮北口から乗車し、59番の国分寺へ向かう。添乗は、寺田、宮野のペア。バスはユタカ交通(田中DR),お客さまは、31名で少し余裕がある。事前の予定では、初日は3ケ寺だが、あすのことを考えるとできれば4ケ寺廻りたいところ。石鎚PAの「りんりんパーク」で昼食をとり、おまいり開始、逆打ちで56番泰山寺まで打ち終えて16時30分、とてもスムースに運べた。国道317号を走り、道後温泉ホテル「ルナパーク」到着が17時30分、食事を終えたお客さまも、温泉街の探訪へ。和尚は、先輩の田中一弘先達のお誘いで、街へ繰り出した。まずは、象牙細工の柴田老にご挨拶へ、田中先達は、奥様にお土産を買われた。それから先輩行きつけの焼き鳥「番鳥」へ、珍味「はも皮のちくわ」に感動、とり皮も当地では、焼くのではなく、炒めるという、その方がパリッと仕上がって確かにおいしい。
翌朝は、8時出発。52番太山寺から順打ちで55番南光坊まで午前中に廻り終えた。朝一番に太山寺の参道を登るのが、気持ちよく、空気がとても美味しく感じる。53番圓明寺の左甚五郎の龍や大師堂の見事な瓦に感嘆の声があがる。南光坊の大師堂は、年明けから修理に入り、その間は、本堂におまつりするとの看板が掲示されていた。
帰路は、しまなみ海道を経由して宝塚着17時30分。田中DRの運転に大感謝の二日間だった。

2009年12月13日日曜日

西国 7回 20~23番





平成21年12月8日

阪急の巡礼バスに梅田から添乗した。お客様は40名、天候にも恵まれて、快適な日だった。京都の西、20番善峯寺(よしみねでら)に向かう、かっては西山連山に多くの寺があり、西方浄土にあこがれる人々の多くの参詣があったのだが、応仁の乱で破壊され、この善峯寺は残された名刹だ。5代将軍綱吉の生母、桂昌院によって復興されたお陰である。駐車場からの急な参道をあえぎながら登り、本堂で勤行。多宝塔前の天然記念物「遊龍松」を愛でて、亀岡の21番穴太寺(あなおじ)へ。
穴太寺の御本尊は、国の重文であったが、昭和43年盗難に会い、いまだに行方不明、現在は、昭和の名工・佐川定慶の聖観音が秘仏となって厨子の中に祀られているという。
23番勝尾寺(かつおうじ)は、「勝だるま」で有名な寺で、箕面山中に8万坪の寺領を持つ。山門に入る前に、土産物店を兼ねるエントランスゾーンの入口を通る。山門を入ると、美しい池を渡り、参道を登っていくことになる。本堂の廻りには、お正月の為のブースがいくつも組み立て中だった。中に福娘が入り、福笹を授与するという。折からの読経の声が拡声器を通じて、広い境内に流れる中を後にした。
行程の関係で、22番総持寺を打ち止めとした。バスが寺近くまでは入れないので、三島中学裏で下車、JRのガードをくぐり、茨木病院前を通って山門へたどり着く。山門は豊臣秀頼が再建したものという。ゆっくりとお参りさせて頂いた割には、早く帰着できた。気がつくと、和尚の納経帖(先達は巻物になっている)も3周まわり終えた状態になっていたので、中先達へ昇補の手続きをさせていただいた。(総持寺が札所会に事務局を担っている)
写真は上から、勝尾寺山門・善峯寺「遊龍松」・穴太寺山門・総持寺本堂

2009年12月7日月曜日

西国 28・29番



平成21年12月5~6日

5日の午後から、天橋立に向かった。和尚の西国の巡礼の中で、日本海側が少し遅れているという感じだったので、それをクリアーするのが目的。意外とスムースに走れ、宿泊予定の室津ロイヤルホテルに3時間足らずで到着した。ゆっくり温泉を楽しんだ。露天風呂がすばらしい。頭を通り抜ける風と、湯船に浸かる身体の温かさとのバランスがとても素晴らしい。食事は、適当に頼める居酒屋風の「みやず亭」を予約した。風呂上りに、焼酎のお湯割りを注文して、メニューを調べいくつか注文する。折角の日本海なので、魚が中心だ。いろいろ頼んだ中で、最高は「カマスの天麩羅」だった。早めに床に就き、朝風呂に挑戦した。やはり、露天風呂がいい。そのままま、朝食に向かう。窓越しに、天橋立を見下ろしていると、なんと虹が立っている。お給仕の女性に話すと、なんと、当地では毎日のように見えるという。当地特有の朝は、しぐれるという気候条件にあるらしい。そんな話を聞きながら食事をしていると、なんともう一本、薄い虹が立っているのに気がついた。お給仕の彼女も、見たことがないという。
28番の成相寺に向かう途中、天橋立のたもとにある「智恩寺・文殊堂」にお参りした。室町時代の多宝塔があるので、もともとは密教寺院に違いないが、今は臨済宗妙心寺派のお寺だ。結構、観光客でにぎわっている。観光客は、観光船で、天橋立を愛でながら一宮駅に行き、リフト・ケーブルカーに乗って、「股のぞき」で有名な傘松公園へ向かい、さらに成相登山バスでお寺というコースをたどる。和尚は、一気に山道をお寺まで走る。(入山料500円)参拝して、さらに山の頂上の大パノラマ展望台に車を走らせる。天気が良ければ、北アルプスまで見えるとか。次の松尾寺まで約1時間、山門横の駐車場に着く。近年、福井県側からの参道が整備され、観光バスはもっぱらそちらを利用しているようだ。お参りを終えて、食事をと思うのだが、なかなか適当なお店が、見つからない。さすればと、舞鶴市内まで走り、港の近くで「卑弥呼」とう名の「地産地消」をモットーにしている店を見つけた。鮮魚も野菜もお米も全て地元産、「海鮮丼」(1200円)をいただいたが、大満足。レジで「卑弥呼」のネーミングの由来を尋ねたが、「聞いていません」との返事だった。帰路も、空いていて、5時過ぎに帰宅できた。のんびりと、プライベートなお参りを楽しむことができた。
(写真は、成相寺の左甚五郎の真向きの龍と松尾寺本堂)

  

2009年12月1日火曜日

トラベル日本 西国8回 10・12・13・14番




平成21年11月30日

堺を8時半に出発し、名神・京滋バイパス経由10番三室戸寺を目指す。今回のお客様は21名、お四国の経験者や西国も何回目かというベテラン揃の感じ。中には、勧められて和尚の「よう おまいり」を読んだという方もいた。
本来なら、10番三室戸寺、12番岩間寺、13番石山寺、14番三井寺と廻る4カ寺コースなのだが、御開帳の最終日とあって、御開帳の終了時間が早まっていることが判明した。そこで終了時間の早い三井寺を優先し、石山寺、岩間寺と廻ることとした。お弁当の配達も石山寺から三井寺に変更してもらうことに。
三室戸寺も、月曜日にもかかわらず結構な参拝客、読経の後、内拝(100円)内々拝(500円)の時間をゆっくり取り、拝観してもらった。三井寺では、知人ばったり出会うハプニングだったが、困ったことに納経帖の朱印ミスが発生した。二人並んで納経係がいたが、一人が記入し終わった納経帖を隣に渡すと、渡された方が、その上から重ね印をやってしまった。日付をいれる段になってようやく気がついたという。結局、結願後にミスのページを差し替えることで決着したが、残念なことに時折、朱印ミスが発生する。お客様と木谷添乗員、納経係が話合っている間に、和尚はお弁当とお茶を配り、食事をとっていただいた。(女性客がお手伝いいただき感謝)
石山寺から岩間寺に向かう途中で道を間違え、Uターンする笑い話もあったが、15時半には無事打ち上げた。各札所で時間もゆったり取ることが出来、御開帳と合わせ、紅葉をもたっぷり楽しませてもらった一日だった。

2009年11月27日金曜日

西国11回 31番長命寺~30番宝厳寺


平成21年11月22日

連休の中日とあって、高速道路は予想にたがわぬ混雑。9時頃、難波を出発したが吹田IC付近から茨木ICにかけて渋滞だ。天気予報では、午後から雨模様なので、和尚としては、なんとか長命寺だけは、済ませておきたいところ。なにしろ、808段の石段が待っている。半数以上が歩きを選択してくれたので、タクシー組と分かれ、登りはじめる。タクシー組もピストン輸送なので、結構時間がかかり、歩きの先頭集団とタクシー組の後半とは、ほとんど時間は変わらない。
御本尊は、千手・十一面・聖観音の三尊一体という珍しいもの、本堂付近から琵琶湖の風景も臨める。
車中で、お弁当をいただきながら長浜に向かう。なにしろ竹生島への最終便が14時発なので、乗り遅れるわけにはいかないからだ。余裕で、港に到着し約30分の船旅で周囲2kmの竹生島に着く。もともとは神仏習合の島で、弁財天と千手観音が御本尊だが、都久夫須痲(つくぶすま)神社とは渡り廊下でつながっている。納経所と弁財天堂までは、165段の石段を登り、観音堂へはそこから下り、そして神社へという一方通行が本来の順路だ。和尚は、そのルートで案内したが、石段を登らずに、観音堂だけお参りする人も多いようだ。
竹生島発が15時50分なので、たっぷりと時間はある。和尚は、船着き場近くの「山本商店」でご主人の昔ばなしを聞いた。20年前の写真を見せてもらうと、川鵜の被害で、緑が失われているのが良く分かる。巡礼に、弁天堂に参ってもらうため、納経所をその近くに引っ越したとの裏話も聞かせてもらった。お土産もいただいて島をあとにした。
最終便が出ると、後片付けをして、お寺の当直以外は全員島を離れるとのこと。電気も自家発電なので、住民はいないということだ。雨が降り出したが、お参りにはほとんど影響なかった。北陸道~名神を経由して梅田着は19時半、添乗の中村・中原さん、日本交通矢野ドライバーお疲れさまでした。合掌(写真は宝厳寺の石段)

2009年11月25日水曜日

土佐の国 一国めぐり



平成21年11月16~18日

春秋2回で四国八十八ケ所を廻ろうという和尚のオリジナルツアーの第二回目として、土佐の国をお参りした。和尚は、宿泊所を決めただけで、詳細は、ハロートラベルの橋本哲平君まかせ。16日の朝、13名のお遍路が新大阪駅に集合し、一路徳島経由室戸岬をめざした。バスは、大阪第一交通、山下ドライバー。長丁場とあってお昼はお弁当で哲平君の手配は、一富士の「味辯」。九つの枠に仕切られた松花堂弁当だが、色鮮やかに調理されていて、女性軍より「まあ、きれい」と声があがる。
弘法大師の修業霊跡である御蔵洞から空と海を眺めながら、空海の名前の由来を話した。24番最御崎寺のお参りを終えると2時半をまわっていた。25番津照寺の急な階段をクリアーし、26番金剛頂寺にたどり着いた時は3時半、駐車場の「はらみたや」で五鈷杵のペンダントや名物アイスクリンなどを買い求め、一息入れて、境内への階段を登る。堂々たる本堂と薬師三尊、十二神将のお姿を拝して、宿坊に向かう。
金剛頂寺の坂井智宏住職は、四国霊場会の会長を務められていて、兄弟子の東寺・土口哲光師とも昵懇の仲、そんな訳でご無理をお願いした次第だ。奥様の細やかなお心遣いをいただいて、部屋に落ち着き、夕食は皿鉢料理。同行の坪井一宇元参議院議員が先日、勲二等に相当する「旭日重光賞」を受賞したので、皆でお祝いに杯を挙げた。
(素晴らしい宿坊とは、聞いてはいたが、設備、料理などなど最高だった)
17日の朝、6時より護摩堂で勤行。早朝の外気が吹き込む中での読経と坂井住職の弘法大師の御修行の法話に心が引き締まる思いがした。「こんな素晴らしい朝勤行は、初めての経験ですよ」とは生駒の神谷氏の弁。
7時半に出発し、雨の中、27番神峯寺、28番大日寺、29番国分寺、30番善楽寺と順打ちし、1時ごろに「はりまや橋商店街」の「土佐藩」の座敷で昼食。はりまや橋周辺に観光客を誘致しようと観光バス用のターミナルが開設されたお陰で、和尚も初じめて町の中心部を散策することができた。善通寺一高の後輩である森山道子さんは、四国銀行に就職した時、新人研修で来たことがあると懐かしそう。2時に迎えのバスに乗車し竹林寺へ向かう。雨中の境内は、紅葉と朱色の五重の塔が美しく、感嘆の声。
写真が欲しいとの声に押され、撮影したのが、冒頭の一枚だ。
禅師峰寺、雪蹊寺と予定どうり打ち上げて、4時半、宿舎の三陽荘へ。「日頃は、足が痛いなどと言っているのに、お四国を歩くときはなんでもない。本当にありがたい」とは、最年長の北邨昌子さんの禅師峰寺参道を登りながらの一言。
三陽荘は、生駒の「龍眼寺」のお導きで開業したというだけあって、「黄金大師」「三面大黒天」などなど仏像をお祀つりし、高僧の墨跡も多い。和尚も、お遍路本「よう おまいり」も置いていただいているので、東寺・砂原秀遍堄下の書を寄贈することにした。いつもながらの豪華な夕食に麦酒や焼酎もすすみ、皆大満足。
18日の朝、支配人の運転するマイクロバスで青龍寺へ。大相撲・橫綱朝青龍のトレーニング場であった本堂への石段を登り、参拝後、弘法大師の師を祀る恵果堂へ案内した。
34番種間寺、35番清瀧寺、37番岩本寺と打ち終え、昼過ぎ帰路についた。
38番金剛福寺、39番延光寺は、来春の伊予一国巡りに回さざるを得なかった。次回は、フェリーで夜出発し、松山港から足摺岬を目指すこととなる。
今回は、和尚の大学の後輩の石黒博美氏、電通時代の仕事仲間の高橋秋夫氏、前出の森山さん、木村常末さんなどが初参加し、楽しいツアーとなった。次回は、3月14日の夜出発し、15~17日で伊予を廻る予定。

2009年11月11日水曜日

ひとふりの命ー大佛師 松本明慶


平成21年11月9日

このほど京都の大佛師松本明慶師が、『ひとふりの命ー大佛師 松本明慶』というエッセイ集を出版した。平成2年7月から4年5月まで「宗教工芸新聞」に22回連載したエッセイを加筆し、一冊の本にまとめたものだ。
17歳で、佛像彫刻の世界に身を委ねて28年経過した頃の思いが記されている。その思いが、今も変わらないからこその今日の出版であろう。明慶師は、今までに13体の大佛を全国に納め、日本を代表する大佛師の一人である。単なる彫刻家でなく、人々の祈りの対象となる佛像を彫り、修復し、またこの伝統の世界に羽ばたく後進を育てる明慶師の厚い思いが伝わってくる。
お四国の第6番安楽寺には、若い頃からの作品が順次奉納され、御住職をして「明慶歴史美術館ができる」と言わしめるほどで、御本尊薬師如来を除く30数体がすべて明慶佛である。力感あふれるお姿に、柔和な表情の仁王さま、本堂前の水盤の上にチョコンと正座する童天女像2体、なんとも愛らしく、特にお尻がかわいいと和尚はいつもお遍路さんにお伝えしている。そして大師堂のたくましい表情のお大師さまと脇侍の不動明王と愛染明王等などだ。また、四国八十八ヶ所霊場会の出開帳本尊88体も明慶師の刻んだもので平時は、第75番善通寺の遍照閣に祀られている。
西国霊場では、第32番観音正寺の本尊十一面千手観音菩薩(丈六・白檀造)そして、第2番紀三井寺の十一面千手観音立像(総金箔張り・12m)と2体の大佛が納められている。
お礼参りに、高野山に登れば、弘法大師の師僧である恵果阿闍梨尊像に会えるかも知れない。(金剛峯寺)
和尚も10年前の鹿児島・最福寺の大弁天坐像(18.5m)の落慶法要に連れて行ってもらって、初めて明慶師に御紹介いただいた。そんなご縁をいただいて、「松本明慶友の会」の会員となり、念持佛として、明慶作の弘法大師像(白檀・3寸)を我が家にお迎えしている次第である。
明慶佛は、全国で祈りの対象となっているのだが、約100体を展示する「松本明慶佛像彫刻美術館」が京都御所の西に開設されている。開館は、毎月第1.第3週土、日が原則だが、予約制なので、開館日の確認と合わせ電話を。
       松本明慶工房 075-332-7974

2009年10月29日木曜日

読売奈良 四国3回 12~16番



平成21年10月28日

久しぶりに読売奈良のお四国バスに参加した。
しかし添乗は、なじみの合津さんと美人の佐藤嬢。東生駒駅前からの合流だが、最初に挨拶を交わしたのがかって一緒だったお客様、私の携帯番号をチャンと登録されていた。バスは、奈良観光バスで、ドライバーは二人制(鳥島・藤本)
お客様は総勢35名。
淡路SAの時点で、30分ほどの遅れかなと感じていて、打ち止めの寺は厳しいなと思っていた。
焼山寺から打ち始め、順打ちで進めた。焼山寺のふもと、マイクロに乗り換える地点で、店を開く「すだち館」が皆にご接待するからと申し出があり、カボスや鳴門金時の蒸かし芋をいただいて、大喜び。また、久しぶりに山門前に写真屋さんが待機していて、一人一人の写真撮影。
かって撮っていただいた写真が気に入って、「よう おまいり」にも使わせていただいた。そんなことで、本を送る約束をした。
この回は、意外と歩け歩けのコース設定なので、時間が読みづらいし、おみ足の悪い方にはつらいコースだ。
そんな長老も、写真屋さんに送ってもらったりして、うまく事が運び、観音寺を打ち上げたのが丁度5時だった。合掌
(写真は、常楽寺の「あららぎ大師」と大日寺の「しあわせ観音」)

2009年10月27日火曜日

阪急 四国第4回 17~23番


平成21年10月26~27日

守口市駅前から、中型バスで23名のお客様とともに雨の中を出発。添乗員は、先日の片山さん、バスは北港観光の川野ドライバー。人数が少ないので、アシスタントはつかない。しかし、小回りが利くので、お四国には最適のサイズだ。まずは井戸寺から、先日は遅くなってご本尊も拝めなかったが、今回は本堂で七仏薬師の前で読経することができた。名物の「千枚通し」を説明しようとするとなじみの係りのおばさんが、サンプルにとプレゼントしてくれた。小片に印刷された御宝号を水に浮かべ、三反唱えて飲み込むと万病に効くと昔から言い伝えられているものだ。この寺の山門も素晴らしい。殿様の別邸の御門を移築したものなので、威風堂々としている。
鶴林寺、太龍寺と阿波の「遍路ころがし」のお山を廻り、平等寺で打ち止め。
徳島でのお泊りの楽しみは、「阿波踊り会館」での観賞と指導。うまく踊れると賞がありますからと送り出したが、翌朝聞くと、最高賞のペナントをゲットした者あり、入賞者も数名と大活躍の模様。
二日目は、恩山寺、立江寺と廻って薬王寺へ。道路もスムースで四時半には守口に到着した。人数が少ないためバスの乗り降りも早く、バスも小回りが利いたのがポイント。こんなことはめったいにないこと。
いろいろなお話も、ゆっくりさせていただけたし、御機嫌の阿波路だった。合掌
(写真は平等寺の修行大師像)

2009年10月24日土曜日

お堂でみる阿修羅

平成21年10月24日

10月6日から11月23日まで「興福寺国宝特別公開2009」が開催されている。いつもは宝物館にいる10大弟子や八部衆をお堂の中に安置し、本来の姿で拝観しようとする試みだ。会場は、仮本堂と北円堂の二ヶ所。夕刻から早稲田大学校友会奈良支部総会があるため奈良ホテルを訪れたのだが、早く着いたので興福寺に向かった。一時間の余裕があると思っていたが、仮本堂で40分、北円堂で60分並ぶ必要があるとわかった。チケットは、期間中有効なので、阿修羅のいる仮本堂だけでも拝観しようと列に並んだ。
予想通りの時間で入場できたが、仮本堂の仏像群に圧倒された。中央に釈迦如来坐像、脇侍は、向かって右に薬王菩薩立像、左に薬上菩薩立像、さらにその左右に四天王が2体づつ。釈迦3尊は、いずれも3m60あり、四天王も2mクラスの大きさ、その前に阿修羅を中心に10大弟子と八部衆が居並ぶが、その大きさは1m50前後、そのバランスがいかにも立体曼陀羅だ。
総会で早稲田大学文学部大橋一章教授の講演「奈良美術をつくった工人たち」を拝聴した。平城京に3国家官寺を藤原京から移設したが、時の権力者・藤原不比等が造立したのが興福寺という。官寺の仏像は金銅仏であるに対し興福寺の仏像群は乾漆造である。官寺・薬師寺の三尊像の美しさに対し、不比等の興福寺・阿修羅像の気品ある、憂いをおびた表情が人気の秘密だと話された。改めて、北円堂に行きます。

四国別格二十霊場会 先達研修会



平成21年10月23日

別格霊場会の先達研修会が高松市第19番香西寺で開催された。香西寺は、和尚の推薦寺でもあるので、かけつけた。前夜、櫻谷先達と「天銀」で美味しいてんぷらで一献傾け、仕上げは勿論「讃岐うどん」。
会場の香西寺は、嵯峨天皇の勅願寺、行基菩薩が創建し弘法大師が本尊延命地蔵菩薩を刻んだという。寺宝の毘沙門天立像(平安中期)は重要文化財。研修会場は、本堂で、約270人の先達が参加、10時巡回大師法要・先達物故者追悼法要で始まり、大般若転読法要で午前中は終えた。
午後からは、香西寺乃村龍泱住職の講話「真言密教と弘法大師」。弘法大師の伝える密教の奥義をわかりやすく説かれた。涅槃経の「一切衆生悉有仏性」を大師の教えの根本とし、それが 「即身成仏」に繋がり、手段の行としての「三密行」がある。三密行の基本は、「十善戒」にあると説かれた。
「仏様がほっとけ様になっていないか」との話に皆、爆笑、ユーモアあふれる法話であった。
続いて、霊場会長の第9番文殊院荒井浩忍住職が「延命長寿法」(延寿法)を指導されたが、正直なところ、得度もしていない一般の方に伝授していいものかと疑問に思った。
会場では、多くの先達仲間が参加しており、和尚も参加して良かったと思いながら帰路についた。
(写真は、法要と乃村住職)

2009年10月20日火曜日

阪急中部 四国第3回 11番~23番


平成21年10月18~19日

名古屋からの25名のお客様を乗せたバスと桂川SAで9時に合流し、阿波の国に向かう。初日は、12番焼山寺から17番井戸寺までの6カ寺を順打ちでまわることとなった。ややタイトなスケジュールだが、アシスタントが、タクシーで先乗りし納経を済ませると言うので、なるほどと一安心。井戸寺を除けば、いずれもバスを降りてから歩かなければならないので、ハードなコースといえる。焼山寺は、ふもとでマイクロと乗り換えて登るのだが、マイクロの発着地で最近店開きした「すだち館」が皆にアイスキャンデーと蒸かし鳴門金時の大接待で、感激。打ち終えた時は、5時半を廻っていた。
二日目も、遍路ころがしのお山である鶴林寺と太龍寺があり、阿波の国の最終である薬王寺もあるので、ホテルを7時に出発した。その3カ寺をまず済ませ、平等寺、立江寺、恩山寺、と廻って残る藤井寺に着いた時には、5時をまわていた。お寺が、本堂・大師堂には明かりをつけておいてくれていたので、本堂天井の30畳敷きの雲龍の図や大師堂の壁画も拝観することができた。お寺の御配慮に感謝!
和尚とアシスタントは、桂川SAで失礼したが、名古屋に着くのは11時ごろになりそうとか。とても熱心なお客様ばかりで、とても楽しいお参りだった。合掌
(写真は平等寺の「白水の井戸」)

阪急 四国第7回 38番~43番


平成21年10月13~14日

片山添乗員と1年ぶりのコンビで、最も遠隔地である足摺岬の38番金剛福寺から伊予路の43番明石寺までの6カ寺を打った。なぜ1年ぶりかというと昨年和尚はバスに冬用の帽子を忘れ、彼に預かってもらっていた。それを持って来てくれたので、1年ぶりと確認できたわけだ。
難波を8時半に出発して、ひたすらバスは走るが、足摺岬に辿り着いたのは4時過ぎだった。40名のお客様に、「間もなく到着ですので、御準備を」と伝えた直後、カーブで中央線をはみだしてきた乗用車がバスの後部に接触し、事故処理となってしまった。接触ポイント近くのお客様は、乗用車が、はみだして接触してきたと言うのだが、乗用車は、止まっていたのにバスが当たってきたという。どちらにしても、お参りにはギリギリの時間なので、どうしようかと思っていると、片山添乗員が宿泊先のホテルビロー園に電話し車でのピストン輸送を依頼、お陰で警察を待つバスを置いてお参りすることができた。
お参りを終えて、夕暮れの中を岬巡りへ。ジョン万次郎像、展望台、灯台、大師の七不思議などを散策して門前に戻ると、事故処理を終えたバスが待機してくれていた。
14日は、まず、お弁当を積み込みがてら土佐清水港の「足摺黒潮市場」にお立ち寄り。ここにしか売っていない「まぐろのかぶと煮」が、素晴らしく和尚の好物でもあるので御紹介すると、試食をしたお客様たちが気に入って大量にお買い上げ、喜んだ店長が和尚にそれをご接待していただいた。(ごちそうさまです)
延光寺、観自在寺、龍光寺、佛木寺、明石寺と廻って帰路についたのだが、トイレ休憩の淡路SAを出発直後、トイレに貴重品の入ったポーチを置き忘れたとのお客さんの声、片山添乗員がSAの管理事務所に電話するも繋がらず、彼の判断でお客様の了解を得て、明石大橋を渡ってから、Uターンしトイレに駆け込むと無事ポーチを発見、バスは拍手に包まれた。
いろいろなことがあったが、お四国巡りに参加するお客様の温かい心根をしみじみと感じた2日間だった。
(写真は、延光寺の海亀が竜宮から持ち帰ったという梵鐘の石像)

2009年10月8日木曜日

阪急 四国第10回 60~65番


平成21年10月6~7日

台風18号が接近中ということもあって雨模様のスタート。(添乗チームは、木下添乗員、後藤アシスタント、ドライバーは商都交通入江さんに和尚の4人)
7日は、本降りを覚悟し、65番三角寺、60番横峰寺の難所を6日に打つこととした。いずれもタクシーやマイクロに乗り換えて登るお山だ。思ったほどには降られず、大正解。64番前神寺もお参りでき、残り3ヶ寺は平地なので一安心。宿のホテル奥道後で、バイキングの夕食、入浴の後、ビアカウンターでキリンの生をいただく。旧オーナーの坪内寿夫さんが夢に出てくるというベテランの女性係員との会話が弾んだ。「お墓参りに来て欲しいじゃないかな」との和尚の声に「しばらく行ってないから、行こうかな」の返事。
7日は予想通りの雨、61番香園寺の大講堂には、大日如来を中心に左に不動明王、右に子安大師を安置、大空間でのお勤めの声は、心にしみこむようだ。和尚はいつもここで、大日如来の菩薩形について話をさせていただいている。宝寿寺、吉祥寺と打ってリンリンパークで、伊予名物「鯛茶漬け」の昼食をいただいて帰路に。大振りの栗が目に止まり、御土産にしたが、とても美味しかった。
お客様より「よう おまいり」を送ってほしいと依頼され、8日に手配させていただいた。
台風の影響で、7日発のトラピックスの遍路バスは、すべて中止のようで、我々は幸運というべきか。
この2日間、熱心なお客様が多く、いろいろとご質問をいただいた。また、携帯にかって御一緒した方から質問が入った。しばらく前に父親が亡くなったのだが、高野山のお礼参りに行ってもよいのだろうかとのこと。お参りして、菩提を弔ってはいかがでしょうかとお答えした。
最近は、バスに乗るなり和尚の携帯の番号をお知らせするようにしている。迷子防止だ。そして、なにか疑問があれば、遠慮なくお電話をと申し添えている。ブログをご覧の方もいつでもどうぞ。合掌
  090-2351-3927
  メールは tao6637h@m5.kcn.ne.jp
(写真は三角寺の鐘楼門。四国霊場でも、珍しい存在)

西国御開帳


平成21年10月4~5日

西国霊場を中興した花山法皇の千年忌を期して、昨年から各札所が順次特別御開帳を実施している。
名古屋からの西国第2回の巡拝バスに添乗して2番から8番と番外の法起院を巡った。10月1日より御開帳を始めた札所がいくつかあり、そのことを意識していなかったお客様も多く、その巡り合わせに大喜びだった。
長谷寺、岡寺、壺阪寺、施福寺と御開帳中で、特に施福寺は、和尚も初体験で感動ものだった。本堂の主尊は、弥勒菩薩で、向かって右に文殊菩薩、左に千手観音が安置されている。いずれも堂々たるお姿だ。西国札所としての本尊は、左の千手菩薩だ。御手に結ばれた五色のひもで、参拝者と結縁できるようになっている。
裏手には、花山法皇が、道に迷った時に馬のいななきに導かれて本堂にたどりついたという逸話にちなむ馬頭観音と方違観音が祀られている。左横手には、弘法大師、伝教大師を始め諸仏像が居並ぶ。
葛井寺、粉河寺でも、内陣の拝観が叶い、紀三井寺では、昨年開眼の大観音像にも身近に接し、とても充実したお参りとなった。
ところで、施福寺の登山口でのこと、地元の物産などを商うお店があるのだが、いつもお杖を貸していただいている。今回もそのつもりで、お話をしていたのだが、お杖が置いていない。お店に顔を突っ込み、「お杖をお貸しいただきたいのですが」とお願いすると、「阪急の名古屋だろう?杖を借りていくけど、何にも買ってくれない。よその自販機で飲み物を買うんだから」という返事。「だったらいいですよ」とあきらめ、先頭グループは、杖なしで登ることにした。「お杖を借りたら、何か買わなくてはと思っていたのに」とはお客様の声。山上の境内で後続を出迎えると、杖を突いて登ってくるではないか。聞けば、トイレから出てお店に行くと杖が店頭に置いてあったという。和尚との会話のあと、気が変わったようだ。合掌
(写真は、紀三井寺大観音像を閣上から拝観)

2009年9月30日水曜日

覚王山 日泰寺

平成21年9月30日

日本の仏教界あげての唯一のお寺が「覚王山 日泰寺」であることを御存じですか?現在仏教19宗派の管長が3年交代で住職を勤め、お釈迦様のご真骨が祀られている超宗派の寺院なのだ。
BC383年釈迦はクシナーラーで入滅し、荼毘にふされた。その遺骨は、八つの国や部族に分けられ、釈迦族の本国で釈迦も出家するまで住まいしたカピイラヴァットウ城にも分骨された。明治31年(1898)1月そのカピイラヴァットウから13キロ離れたインド領ピプラーワというところで、英国駐在官のウイルヘルム・ペッペが古墳の発掘をしている時に水晶製の骨壷を発見した。その壺には、「釈尊の遺骨」と古代文字で銘刻され、釈迦の真実の遺骨と断定された。そしてそれはインド政府に提出されたが、仏教徒が人口の1%というインドでは、ありがたくもなかったのか、シャムの王室に贈呈された。(壺はニューデリーの博物館に安置)
シャム国王チュラロンコンは、大喜びし、ワットサケットに祀ったがその喜びを同じ仏教国で分かち合おうと、セイロンとビルマにお裾分けしたのである。それを聞いた日本の駐在公使・稲垣満次郎がうらやましくてたまらず、日本にも分骨して欲しいと国王に懇願、「日本国民への贈り物」としてそれが認められた。
明治33年6月仏教界13宗56派の代表がバンコックで遺骨を拝領した折、遺骨奉安の寺院を超宗派で建立する旨、約束すると完成時の御本尊にとシャム国宝の1000年を経た釈尊金銅仏を下賜されたのである。
寺院建立の候補地を巡り、調整に難渋したが、名古屋官民一致の誘致運動の結果、名古屋に決定し10万坪の土地が用意されて、明治37年に完成した。当初は日暹寺(にっせんじ)と称した。暹はシャムの国名(暹羅)から採ったもので、タイと改称した際に寺名も変更された。御恩を忘れないための命名である。
毎月21日は、「弘法さんの縁日」で多くの人が訪れるし、周辺には四国八十八ヶ所のお堂が揃っている。
和尚も二回ほどお参りに行った。名古屋駅から地下鉄東山線に乗り「覚王山」駅で下車すると、参道だ。機会があれば、ぜひお参りに行って下さい。ちなみに「覚王」とは、釈迦の別名。

阪急中部 西国第2回 2番~8番


平成21年9月28~29日

名古屋からの巡拝バスに添乗して2番紀三井寺から8番長谷寺までを案内した。初日は、長谷寺、法起院、岡寺、壺阪寺、葛井寺とまわり、2日目は、施福寺、紀三井寺、粉河寺とまわるコース。先日の西国の先達研修会で、壺阪寺の常盤住職の講演を聞いたので、さっそく車中でご紹介した。なんと、山門で件のご住職にばったり出会い、皆さんに、「先ほどお話したご住職ですよ」と紹介させていただいた。なんというタイミングだ。長谷寺、岡寺、壺坂寺は、御本尊と久しくお会いできるので、案内のしがいのあるお寺である。
施福寺は、上醍醐につぐ難所といわれているが、上醍醐は、途中までタクシーでゆくオプションもあり、いまは山上の落雷でお堂が焼失し、本尊は、醍醐寺金堂に安置されているので、まったく山登りの必要がない。そうすると、全員が、登らなければならない施福寺が、西国1番の難所ということになろう。かって心筋梗塞を患ったという人を含め、全員が無事お参りできた。また、この寺は、弘法大師が剃髪したゆかりの寺としても知られている。
紀三井寺の圧巻は、昨年の5月に落慶法要が営まれた「大千手十一面観世音菩薩像」、旧知の松本明慶大仏師の作になるもので日本最大観音立像である。300円(70歳以上は200円)の拝観料を払って入堂すると、その巨大さに、皆びっくり。階段を上って展望閣に至ると、和歌の浦が一望できるし、観音様のお顔をガラス越しに拝見できる。和尚も近くでお顔を拝見したのは、初体験だった。
お客の一人に、電通で同期の兄さんがいて帰宅後、電話をしてくれたらしく、さっそく懐かしい連絡をいただいた。久しぶりに東京で11月に同期会を開催するという。和尚もかけつけることを約した。
(写真は施福寺・弘法大師御髪堂)

2009年9月27日日曜日

西国三十三所霊場会 先達研修会


平成21年9月27日

第5回先達研修会が大阪・新阪急ホテルで開催された。会場の紫の間は466名の参加者で満員の盛況。当日の資料では、現在の公認先達は3291名とのこと。
講演は、6番南法華寺(壺阪寺)の常盤勝範山主、「お里沢市」の壺坂霊験記にまつわるエピソードを交えながら、観音様の気持ちになって人に接する大事さを話された。当寺は、盲老人の養護老人ホーム「慈母園」を境内に開設するほか、いくつかの福祉施設を運営している。その経験から語られる言葉に、考えさせられる点が多かった。目の見えない人の立場、気持ちを理解して接することができるか。それが観音様の気持ちという。
白杖で、物を確認しながら歩む盲人にとって、バリアフリーの平面は、とらえどころがなく、かえって不安になる。健常の者にとって、当たり前のことが、当たり前でない世界をどう理解するかだ。
山主の子供の頃の思い出に、「入所者と草刈りをしなさい」と言われ、日よけ帽子や香取線香を用意して行くと、「坊っちゃん、私等は、昼も夜も一緒だから、涼しい夜に草刈りをしますよ」と言われたという。
壺阪寺といえばインドの石仏と言われるほどに、ご縁が深いが、先代のちょっとしたきっかけが基となり、インドの救ライ活動にのめりこんだ機縁によるものとか。いいお話を聞かせていただいた。合掌

2009年9月25日金曜日

土佐の国 一国巡り

ハロートラベル大阪主催「田尾秀寛師と巡る四国八十八ヶ所遍路の旅」

この春からスタートした和尚が先達のバス遍路、春、秋と一国づつ巡り二年で結願する行程。今秋は、土佐の国を廻るが、38番、39番は次回まわし。せいぜい20人までの一行なので、毎夜、一献傾けながらの楽しい旅となる。よろしければ、お問い合わせください。

 日程 平成21年11月16日(月)~18日(水)2泊3日
 集合 午前7:50 新大阪駅1階観光バス駐車場
 費用 59,000円(納経代は別途)
 申込・お問い合わせは
     ハロートラベル大阪 06-6306-6411

こんにゃく祭り



平成21年9月20日

和尚がお預かりしている「真言宗 奈良 唐古 常徳寺」で20日、弘法大師お逮夜法要に合わせ「こんにゃく祭り」を開催した。こんにゃくは九州・鳥栖の手作り「ごんべえこんにゃく」が「戌年同行の会」から御布施として贈られたもの。関東煮のおでんはよくあるが、和尚のこだわりはあくまで故郷「讃岐流」である。
こんにゃくのあく抜きをした後、白湯で温め、味噌をつけていただくのだが、その味噌味が問題。春の御彼岸に開催した時は、味噌味を求めて苦労した。たまたま「阿波の一国巡り」の際にいただいたお弁当に味噌こんにゃくがあり、その味が求めていた子供の頃のなつかしいものだった。弁当やさんにその味噌のレシピを尋ねると、ホテルまでミニパックに入れて届けてくださった。みなさんに味見をしてもらったところ大好評なので、それを持ち帰りミナミの「松鮓」の板さん・亀山さんに再現を依頼した。今回も亀山さんにお願いして、前回より少し甘めに作ってもらった。
当日は、朝から先達仲間の後藤氏、武田さん、源さんが大奮闘で調理してくれた。
13時より法要、説法。14時からこんにゃく祭りのスケジュールで、有縁の方が40名ほど集まった。「こんなおいしいこんにゃくは、初めていただいた」の声が多く、またたく間に20丁のこんにゃくが胃袋に消えた。20丁といっても「ごんべえこんにゃく」の大きさは普通のこんにゃくの倍以上の大きさだ。縦長に1丁を1/4に切って串に刺してあるのだが、豪の者は10本たいらげたとか。
お四国で顔みしりの方も多く、和気藹々と楽しいひと時を過ごさせていただいた。
合掌
(写真は、「ごんべえこんにゃく」と法話中の和尚)

2009年9月23日水曜日

四国霊場会 先達大会


平成21年9月18日

第29回四国八十八ヶ所霊場会 公認先達大会が高知県民文化ホールにて開催された。年に一度の全国大会で、北は青森県、南は沖縄県から1200名を超える公認先達が一堂に会した。
開会式の後、物故者の慰霊法要が札所寺院のご住職等によって営まれ、表彰式などがあって午前の部は終了。
午後の特別講演を楽しみにしていたが、講師の大塚耕平参議院議員が、副大臣に起用されたため欠席。しかし、国会で欠席もあり得ると予感した講師は、念のためのVTRを作成してくれていた。
テーマは「私にとってのお大師様とのご縁」、講師は名古屋の覚王山日泰寺の門前に事務所を構えるが、子供の頃から、弘法市などの縁日に親しんできたという。日泰寺の由来は、和尚がバス遍路で話題に取り上げるテーマなので、とても興味深く聞かせていただいた。(稿を改めて由来を書きましょう)
講師は、平成14年から「弘法さん かわら版」を作り参拝者に配り続けているという。それが、この度、
大法輪閣から出版の運びとなった由。続いて、初の試みとしてパネルディスカッションがあった。4番大日寺の真鍋俊照住職(四国学院大文学部長)をコーディネーターに霊場会坂井智宏会長、作家・家田荘子、関西先達会平岡進会長、52番太山寺吉川俊宏住職がパネラーとなって「今にいきるお大師さん」をテーマに議論された。中々参考になる話を聞くことができた。
今回は、前日よりお四国仲間の武田、源の両先達と高知入りし、大日寺、国分寺、善楽寺の3カ寺もお参りできた。

2009年9月9日水曜日

観音正寺御開帳ー西国満願の旅


平成21年9月8日

難波から西国12回満願のバスに添乗した。お客様は44名、満員の盛況だ。福山添乗員にアシスタントは、ベテラン上田氏、バスは近畿観光・斎藤ドライバー。32番観音正寺と33番岐阜の谷汲山華厳寺の2カ寺のみだが、観音正寺は、西国札所の中では屈指の難所の一つ、歩けば、急な石積階段1200段を30~40分かけて登ることになる。勿論、タクシーで近くまで登るオプションもあるので、お客さんは選択できることになっている。和尚は、一人でも歩くといえば、付き合わざるを得ないので、タクシーに乗ったのは1度きり、それは積雪後のお参りで、危険を感じ全員タクシーをお願いしたことがあるのみ。
希望を募ったところ、15名が徒歩組となった。タクシー組も、ピストン輸送となるため、本堂に着く時間はほとんど変わらない。頂上の境内に、山門はないが、大きな仁王さんが、迎えてくれる。本堂、本尊共に、平成5年の火災で焼失し、平成16年に復興されたところ。とくに本尊千手観音は、丈六の大仏で知己の松本明慶工房製作で、彼独特の優しい、ゆっくらした表情をしている。インド政府から特別許可をいただいて輸入した23トンの白檀の原木からの作品である。
お参りを終えて、参道を下るとき、本尊の合掌した御手からの結縁の紐が木々を伝い山を下るのに気がついた。どこまで繋がっているのかと、注視しながら下山すると、参道入り口にある駐車場に立てられた角塔婆まで続いていた。山を登れない人にも結縁の機会をという、御配慮だと感じた。標高433mの頂上からである、びっくりするやら、感動するやら。
満願の華厳寺は、桜並木を守るため、バスは1キロ手前までで、後は歩きだ。また、この寺だけは、3か所、お参りする。本堂、笈摺堂、満願堂の3か所だ。それはいいのだが、納め札箱が満願堂にしか置いていないという。3か所お参りさせて、3つの朱印を押すのだから、各お堂の納め札箱を置くべきだと和尚は思う。
(写真は御開帳の観音正寺本堂)

ご接待

平成21年9月7日

名古屋発の四国第1回目の遍路バスが2台、1号車には、桂川SAから中川先達が乗車し、2号車には、和尚とアシスタントの幸山君が、名塩SAから乗車した。添乗員は角嬢、1号車26名、2号車25名、バスは共に西濃華陽バス、しかもドライバー2名制。予定より30分ほどバスが遅れ、1番霊山寺に着いたのが12時半ごろ、遍路用品を揃え、お弁当をいただいて、記念写真を撮り、法話を聞いて、気がつけば2時半過ぎだった。2番、3番、5番、と廻り4番を打ち止めたのが、5時前。1番霊山寺の法話の後、ご住職が、「先達さん前に」というので、何事かと思ったら、「付法の八祖のお名前を刻んだ印版を作ったので、お遍路さんの白衣の右肩に押してあげてください」ということだった。
今回は、霊山寺の写真担当のお姉さまからは、いま旬の「生すだち」をどっさりいただくし、2番極楽寺の長寿庵では、住職夫人にばったり出会い、御挨拶すると、「すだち酎」に「鳴門金時のふかし芋」をご接待いただいた。和尚の先達仲間の武田泰全さんの推薦寺が極楽寺で、彼女の近況も尋ねられた。
名古屋からのバスでは、つい力が入り、「覚王山・日泰寺」の由来をくどくどと話してしまう癖がある。
いずれ稿を改めて、日泰寺の話を書きます。

2009年9月5日土曜日

仏の姿、菩薩の姿

平成21年9月5日

日本最大の宗教新聞「中外日報」9月1日付の紙面に畠中光享氏の文章が掲載されていた。とても解りやすいので、転載させていただく。「釈尊出家後の姿が仏、宮廷生活の姿が菩薩」ということだ。


 最初の仏像はどのような像で、どのような姿であったかを述べていきます。仏像と菩薩像はほぼ同時につくられ、最初仏像といえば釈尊像のみであり、菩薩像は釈尊入滅後56億7千万年先に仏となるとされる弥勒菩薩だけがつくられました。2世紀も半ばになりますと阿弥陀仏や過去仏であるディパンカーラブッダ(燃灯仏)がつくられ、観世音菩薩の前身の蓮華手菩薩もつくられ始めます。
 仏の形は釈尊出家後の姿で表され、菩薩の形は出家前の宮廷生活の時の姿で表されました。出家者は死体焼場に棄てられた衣類を洗い、状態の良いところを自分で縫い合わせて一枚の衣をつくり、腰布の上から身体に巻きつけて衣として身につけました。両肩を覆った着方を通肩(つうけん)と言い、右肩を出した着方を偏袒右肩(へんたんうけん)といいます。ガンダーラでは通肩の像が圧倒的に多く、マトウラでは初期の仏像は逆に偏袒右肩が多く見られます。ガンダーラ仏の衣の彫りは深く、高低があり、衣文の流れも自然な感じで水が自然に流れていくように彫られています。仏像の衣のことをわが国では糞掃衣と呼び、便所掃除の衣とされていますが、間違った訳といえます。もともと衣と袈裟は同じですが、わが国では貴族風衣裳の上に袈裟をつけています。五条や七条袈裟と言うのは五枚つなぎ、七枚つなぎといった衣の意味で、かろうじてつなぎ合わせて衣をつくったという体裁を袈裟でもって保っているのです。
 菩薩の姿は釈尊の宮廷生活の姿なのでネックレス、イヤリング、アンクレットなどの飾りをつけ、上半身は裸でドーティ(腰巻)を着け、サンダル姿で豪華に表されています。菩薩の髪は宝髻(ほうきつ)といい、頭髪を紐状のっもので結び、二段の束髪にし、装飾品を付けていることが多いです。また髪型も一定している自由な自然さがあります。顔の左右に垂れた頭髪は多くは耳の下で束ねられていますが、中には長く肩に垂れた、いわゆる垂髪(すいはつ)の形をつくっているものもあります。日本や中国の菩薩についている宝冠はガンダーラではみられません。
 仏像をつくる時の決まりを儀軌(ぎぎ)といいますが、最初から多くの儀軌があったわけではありません。ギリシャの神と違って、当時のガンダーラ地方の人々の姿によるところが多いと思われます。
 頭頂部の肉髻(にっけい)は知恵のコブといわれますが、実際には髪を上に持ち上げて頂上でで団子状に束ねたウエーブのかかった髪形であって、儀軌によって螺髪形に決められるのは、北インドではグプタ時代(320年~)に入ってからのことです。仏像の耳たぶが長いのは人々が重いイヤリングをつけていたからです。現在でも南インドの人の中には耳たぶが耳の倍の長さくらいの人を見かけます。額に白毫がつくられたのは、インドラ神(帝釈天)の額にある横長の目、シヴァ神の額の縦の目などインド的、額の神格化の要素を加えたことによります。
 仏、菩薩像には、頭光(円光背)がつくられ、尊像としてのオーラを表現していてギリシャやローマの神の像にはありません。手の指と指の間には水かきのような膜がつくられていて、それを曼網相(まんもうそう)といい、少しでも衆生をもらさずに救うための膜とされていますが、実際は彫刻が壊されにくくすることや、またつくる際に折れにくくするためにつくられたものです。











  

2009年9月4日金曜日

慈雲尊者

平成21年9月2日

さぬき市の櫻谷和香先達が、来阪されたので大阪の文化発信基地として変貌を遂げつつある中之島を御案内した。かっては大名の藏屋敷が多くあり、慶応義塾の創始者福沢諭吉もこの地の中津藩蔵屋敷で生を受けた。
また、真言行者にとって忘れえないのは、慈雲尊者の生誕地でもあることだ。リーガロイヤルホテルの東側に生誕の地の石碑がある。
慈雲尊者は、名を「飲光」(おんこう)といい、享保3年(1718)7月28日に高松藩蔵屋敷で生まれた。幼児から読書・書法を学び、13歳で父を亡くすと摂津住吉法楽寺で得度し「忍瑞慈雲」と称した。翌年、悉曇を学び、18歳で京都に上り、伊藤東涯に儒学を学ぶ。顕密を極め、諸国を遊歴し、延享元年(1744)摂津高井田長栄寺に住して正法律を唱道し、釈尊在世当時の戒律復興を目指した。
41歳、生駒山中長尾の双龍庵に隠遁、梵学の研究に専念して10年後完成したのが「梵学津梁1千巻」で、今日でも世界の驚異とされる。明和8年(1771)西京阿弥陀寺に移り、十善戒を説き勧め「十善法語12巻」にまとめた。安永2年(1773)河内高貴寺を付属され、ここを正法律の根本道場とした。また晩年には、理趣経の還梵を試み、雲伝神道を創道した。文化元年(1804)12月23日阿弥陀寺で遷化、高貴寺奥の院に葬る。門下数百人を数え、各宗に通じると共に儒教・神道、西欧の事情にも明るく、釈尊の根本仏教への復帰を主張した一生だった。正法律運動もその一端である。江戸時代の革命的名僧である。

2009年9月1日火曜日

京都巡拝


平成21年8月31日

西国霊場18番頂法寺、19番行願寺、そして東寺を巡拝した。頂法寺は、六角のお堂が本堂であるところから「六角堂」の名で知られている。聖徳太子が開基(587)したこの地は、太子が水浴をされた池のあったところで、遣隋使小野妹子が帰朝後、この池の畔に坊を建て、本尊を守護し、宝前に花を供え、代々それが受け継がれ、華道池坊の基礎となったという。
(本尊:如意輪観音)
19番行願寺は、別名「革堂」。京都市役所の北にある。開基は行円上人(1004)、若かりし時は狩猟を良くし、ある時一頭の牝鹿を射止めた。この鹿は、身ごもっていて産み月近くになっていた。矢傷と陣痛の苦しみの中で、出産し、小鹿の全身を舐め、悲しい鳴き声を発して息絶えた。これを見た行円は、心から母鹿にわびる思いで出家し、常に母鹿の皮を身に着けていたという。そこから革聖、革上人といわれ、革堂の名もそれに由来する。天台宗に属し、尼さんがご住職。(本尊:千手観音)
お昼前、東寺の土口哲光強化部長を訪ねた。和尚の兄弟子であり、師のお陰で、砂原秀遍長者の弟子となり仏門に入らせていただいた。いつも食堂で、おうどんをいただくのだが、今日は修行僧が袈裟を付け食事(じきじ)作法中であった。和尚も、高野山大学道場でのことを思い出した。兄弟子から、法要の次第などのご教示を受け、いろいろと御指導いただいた。にわか坊主の和尚にとって、なくてはならない、ありがたい存在である。
納経所で、御朱印をいただいたが、東寺は四国八十八ヶ所霊場の番外札所であり、古来、お四国に参る前に東寺で道中安全のお札をいただき、四国へ渡ったもの。そして、お礼参りに高野山奥の院。つまり「88+2」で90ヶ寺を廻るべきもの。和尚もバス遍路の先達の際はその話をしているので、和尚から聞いたと言って、納経所に来られる方も少なくないとか。ありがたいことです。合掌(写真は、東寺 五重塔)

2009年8月28日金曜日

お遍路の旅 説明会


平成21年8月28日

阪急トラピックス高松主催の「お遍路の旅・説明会」があり、公認先達として説明をするために赴いた。
和尚の持ち時間は約30分、話のテーマは3点に絞った。
 ①お遍路の由来
 ②お遍路のスタイル
 ③お遍路の作法
②と③は、このブログでも書いたので、①についてポイントを説明すると、まずは、「遍路の語源」。「辺土」、「辺路」と変化し江戸時代に「偏路」となる。「辺土」とは、海岸線から最初の山岳地帯までのエリアを云い、お四国の札所は、その地帯に存在する。だからその札所を巡ることを「遍路」と云うのであって、お四国のみにつかわれる言葉である。ゆめゆめ「西国三十三霊場に遍路に行く」などとは、誤用してはならない。次に88の数字の由来、俗説では、①男と女と子供の厄年の合計で、弘法大師が42歳の頃、自らの厄難と衆生の厄難を除く為に霊場を開創したからだという。②は八十八の文字を合体すると「米」となる。「米」は五穀の代表であるから、「五穀豊穣」を祈願してのものという説。四国霊場会の公式見解は、人が最初に克服すべき煩悩の数(見惑の八十八使)からきているという。
余談だが、「遍路」は立派な俳句の季語であることを御存じ?
旧暦の弥生三月の季語です。「遍路」「遍路道」「遍路笠」などの言葉のみであれば、春の歌だし、季節を変えようとすると、他の季語を付け加える必要がある。たとえば、以下の句で比較されたい。
       
        
 遍路笠 茶屋の床几に 脱ぎ重ね  公羽(虚子編 新歳時記 )

 彼岸花 色鮮やかに  遍路道   和尚

  (写真は、第28番 大日寺本堂)

2009年8月27日木曜日

阪急 四国第5回 24番~31番


平成21年8月25~26日

土佐・修行の国の始まり。本来なら24番から順打ちでお参りするのだが、バス遍路では高速道路を使う関係で逆打ちとなる。西宮北口から合流して、昼食会場の「かつお船」に着いたのは、1時をはるかに過ぎていた。本場土佐ならではの「カツオのたたき」をいただいてから、31番竹林寺より打ち始め。日本3大文殊のひとつとあってか、境内は緑に満ち溢れ、朱塗りの五重塔とのコントラストが素晴らしい。和尚の大好きな札所のひとつである。
お客さんは、38名、添乗の則包嬢は、本人、ご両親とも和尚の母校善通寺一高の後輩とか。世間は狭いと、感心。土佐の苔寺ともいわれる29番国分寺で、大師堂左手の「酒断ち地蔵」を説明すると、男性軍は、「それだけは、勘弁」と拝む人は、いなかった。勿論、和尚も同じ。
28番大日寺にたどりついたのが、4時半ごろ、火災防止の観点から火の気は自粛する申し合わせなので、線香、ろうそくは「運心」ということしてもらう。そのかわり、奥の院の「爪彫り薬師」へご案内させていただいた。
ほとんどの方が、オプションの「竜馬歴史館」の見学を希望、坂本竜馬の一生を蝋人形で表現したもので、結構評判がよかった。
宿の「三陽荘」には7時前に到着、お風呂は後にして夕食にしてもらった。海の幸を堪能し、露天風呂で遍路談義。
2日目は、6カ寺をまわる強行軍なので、6時半に朝食、7時半出発。30番善楽寺から27番神峯寺へ。バスからマイクロに乗り換えるタイミングがうまく行かず、相当のロスタイムとなってしまった。
「神峯の霊水」の話を事前にしておいたので、皆、空きペットボトルを持参し、いただいてきた。この地で脊髄カリエスが治った「水谷しず」さんの報恩の碑の前で、記念撮影する人も。
26番金剛頂寺では、本堂にて、薬師如来、日光・月光両菩薩、十二神将などの解説をし、「一粒万倍の釜」「がん封じの椿」「捕鯨八千頭供養碑」など案内させていただいた。
駐車場横の「はらみたや」では、アイスクリームが飛ぶように売れ、水晶入りの五鈷杵も人気。和尚の遍路本「よう、おまいり」も二冊残っていたが、完売し、二冊の追加をいただいた。
25番津照寺の108段の階段に根を上げ、24番最御崎寺へ。大師堂では、御宝号を7遍唱えて打ち止めとした。大師御修行の御窟洞に入り、座って外をながめ、「空海」の由来を感じてもらった。
 そこからが、長丁場、鳴門まで高速はなく、ひたすら地道を走る。最初の下車地、宝塚に着いたのは、8時を廻っていた。(写真は、津照寺本堂への階段)合掌

2009年8月24日月曜日

お四国の民謡 4 伊予節


伊予節

伊予の松山名物名所 三津の朝市 道後の湯
音に名高き五色素麺 十六日の初桜
吉田さし桃小かきつばた 高井の里のていれぎや
紫井戸の片目鮒 薄墨桜や緋のかぶら
              チョイト伊予がすり(写真は、第47番八坂寺境内)

カラオケ遍路小屋

平成21年8月9日

8日に母校善通寺第1高等学校の同窓会があった。和尚は、同窓会関西支部の事務局長でもあるので、車を飛ばして参加した。和尚の四国新聞に掲載されたエッセイをご覧になった先輩もいて、数人から声をかけられた。その中の一人、昭和28年卒の高木緑水先輩が83番一宮寺の近くで「演歌巡礼遍路小屋」を開設しているという。お話では、「讃岐うどんの御接待はあるが、カラオケ無料の御接待はない」と思い立ったとのこと。一度見においでと誘われ、あくる日に帰路のついでにのぞいて見た。
コトデン一宮駅の東に、プレハブ小屋を改造した遍路小屋があった。おりしも台風上陸で高速道路の閉鎖の報があるため、先輩にも会えないままに、いずれゆっくりお邪魔することを約して、慌てて失礼した。ちょうど、駅から札所までの遍路道に面しているのでわかりやすい。ぜひ、お立ち寄りください。

2009年7月28日火曜日

自殺者増加に想う

平成21年7月28日



警察庁の発表によれば、今年上半期(1~6月)の自殺者数は1万7千76人で、過去最悪の8年前に迫るペースだという。男性の自殺者が増え、県別では東京都、大阪府、埼玉県の順。

自殺は、「自己に対する殺生」である。仏教徒の生きる規範として「十善戒」があるが、その最初に上げられているのが「不殺生」である。生きとし生けるものに皆、仏性があり、「不殺生」は全ての生きとし生けるものに対しての戒である。いわんや人間をや。自殺者の論理では、殺人は犯していないということであろうが、とんでもない。自分に対する殺人である。

弘法大師は、「如實知自心」、自分の中の仏を知れと説かれ、それが即身成仏の道と導かれた。自分の生命は、自分のものではない。仏から生かされている生命なのだ。自分の思いや都合で、勝手に絶つことは、断じて許されない。合掌

2009年7月25日土曜日

寿稜墓の開眼

平成21年7月25日

大和郡山市小泉の共同墓地で、平野家の墓碑の開眼法要をおこなった。今納めるお骨はないということなので、まさしく寿稜墓ということになる。生前葬と同じで、おめでたいことだ。法要中に強い雨が降ったり、止んだりしたが、元ラガーの和尚は、雨には強い。ラグビーは、全天候スポーツだから、雨でも当たり前に試合をしていたからだ。
今は、寿稜墓などと称したりしているが、かっては逆修塔などとも言われていた。逆修塔といえば、35番清瀧寺に高岳親王(真如)の逆修塔がある。
平城天皇の第三皇子高岳親王は、嵯峨天皇の皇太子となったが「薬子の乱」に連座したとして、その座を奪われ、出家して空海の弟子となり真如と名のった。貞観3年(861)入唐の前年に当寺を訪れ逆修塔を建てた。すでに高齢で、死を覚悟しての入唐で「私が印度で果てても、魂は、この五輪の塔の下に帰って永く寺を守り、多くの人を救う」という意の言葉を刻んで旅立った。唐から印度を目指す途中、ラオスで虎に襲われて果てたという。空海十大弟子の一人。

2009年7月24日金曜日

カメラ一筋40数年、盟友片山信男氏が逝く

平成21年7月23日

和尚の10数年来の友人である(株)アートスタジオ片山信男氏が急逝した。氏とは、飲み仲間、ゴルフ仲間であり、和尚が電通で事務局を担当していたRUDEC研究会という異業種交流の集まりのメンバーでもあった。公私に渡る盟友である。和尚が、東寺真言宗大僧都に補任された折、氏のスタジオで僧衣姿の写真を数10点撮影してもらった。「久しぶりのシャッターだよ。」との声に「社員に頼めば、お金がいるから、いいの。」と答えながらの一時だった。もしかすると、彼の最後の作品かも知れない。

6月25日、体調の不調を感じ関西電力病院で診察を受けたところ、直ちに入院、一ヶ月もたたない7月21日に寂入した。まさに弘法の日だ。病名は、間質性肺炎で、あの「美空ひばり」と同じ病名だ。肺壁が次第に固まって機能しなくなり、呼吸困難になる難病だという。原因も治療法もさだかでないとか。

22日が通夜、23日が彼が社長の3社と片山家の合同葬、そしてお骨上げの後の初七日の法要と、不肖和尚が導師を努めた。葬儀委員長は親友のアシダ印刷社蘆田定男社長。出棺前の最後のお別れに際し、和尚は、お四国88ヶ寺のお御影を全身に敷詰め、その上からお花で埋めていただいた。また、病床で、和尚の「よう、おまいり」が読みたいと所望されたが見つからず、愛車の中から見つけたと拙書がお館の中に入れられた。

片山氏は、昭和17年生れ、大阪写真専門学校で学んで以来40数年、写真一筋にひたむきに生きてきた。独立して会社を起こし、写真家として経営者として非凡な実力を発揮し、関西の広告業界で、その名を馳せた。奥様のお話では、次なる事業展開の構想を暖めていたという。齢、古希に満たず、享年68歳。嗚呼何ぞ生死無常の迅速なるかな。

法名「高徳院真弘秀信居士」、和尚は万感の思いを込めて付けさせていただいた。合掌

2009年7月20日月曜日

お四国の民謡 3 足摺音頭

足摺音頭

君と行くなら足摺岬
しぶき千丈の虹がたつ ソレ
ホンニソレソレ虹がたつ

君と行くなら足摺岬
赤い椿が燃えて咲く ソレ
ホンニソレソレ燃えて咲く

君と行くなら足摺岬
冬もビローの若みどり ソレ
ホンニソレソレ若みどり

阪急 四国1回 1番霊山寺~6番安楽寺


平成21年7月12日

夏スタートのお遍路ツアーが始まった。年4回スタートする内の3回目となる。連休の中の日曜日とあって、相当な渋滞を予想したが、案の上、淡路SAまでいつもより1時間近くかかってしまった。
難波を8時過ぎに出発、添乗員は黒木嬢、中尾君、バスは帝産交通(永原ドライバー、小南ガイド)、お客は41名。阪急だけで各地から11台のバスが出ていた。
1番霊山寺では、大師堂にて住職の法話、授戒があり、その後記念写真。和尚は、1番と結願の88番の記念写真だけは、買うように勧めている。ビフォア・アフターではないが1年かけて結願した方の顔は、スタートの顔と明らかに変わっているからだ。それを自分で確かめてもらうために勧めている訳。
1時近くになったので、6番まで飛び、その間にお弁当を食べてもらうことにし、以後は逆打ちに。6番安楽寺の大師堂では、神戸方面からのバスの皆さんと、合同でおまいり。この寺は、知人の大仏師松本明慶の作品が35体安置されている。若い頃からの作品もあり、住職にかって伺ったときには、「うちだけで明慶の美術館が出来る」と言っていた。5番地蔵寺では、希望者を引率して奥の院「五百羅漢堂」を参拝。4番大日寺では、大日如来のお姿の解説、江戸時代に奉納された西国霊場の観音像を拝み、3番金泉寺へ。
「黄金井」に顔を写し長命を確認、閻魔さんに胡麻をすって、弁慶の力石と見所多い寺。改装なった大師堂では外陣でおまいりさせていただいた。
2番極楽寺で、皆で「抱き地蔵」を代わる代わる抱きしめ祈願。大師お手植えの「長命杉」の霊気をいただいて帰路につく。おまいりを終えると丁度17時。
帰りの高速道路も渋滞で、「終電に間に合わせてね」の声もかかる中、湾岸線利用で、21時半頃に到着できた。かって、和尚のバスに乗ったというお客さんが2巡目に挑戦と声をかけてくれた。「1巡目は、夢中で何が何だか分らなかったので、今度は落ち着いてまわります」との弁。和尚の話を聞いて「東寺も行きました」とのこと。有難し。(写真は、大日寺の蓮華) 合掌

2009年7月15日水曜日

阪急  西国 10回 28番成相寺~29番松尾寺



平成21年7月15日

西宮北口から日本海沿いの2ヶ寺をおまいり。和尚の乗るバスは、この地出発の方のみ18名で、添乗員は、ホッコリタイプの外山智子嬢、バスは千里山の中型車(二野宮ドライバー)。最初の休憩地・西紀SAで、声を掛けてくれたご婦人がいた。和尚の自己紹介で電通に勤務していたと聞いたが、私の主人も電通社員でしたという。聞けば、大先輩の大杉さんのご夫人だった。大杉先輩は、和尚が入社した頃は、そごう百貨店担当の部長で、後に高松支局長を努められた。新聞担当だった和尚にとっては雲の上のお方だった。12,3年前に70歳を超えたところで逝かれたという。大杉夫人も、高松赴任中にお四国は結願し、今、西国を巡っているというではないか。なんという奇遇、先般高松でお世話になった筏先輩が、次長でコンビを組んでいたのだ。
ところで、成相寺は、日本三大景色のひとつ天の橋立を望む成相山にある。昼食は、橋立を望む岸辺のレストランでゆっくりとくつろいでいただいた。松尾寺は、77年振りの御開帳の真っ最中、次は33年後という。
バス2台分60名で読経し、お膝元近くで、拝観させていただいた。西国札所唯一の馬頭観世音菩薩、金箔が残る憤怒相のお顔は、予想に反して、優しく、まるで「しょうがない奴だ」と半分苦笑いしながら叱っているように思えた。新たなご縁をいただいた一日だった。合掌

2009年7月13日月曜日

遍路閑話  無名のスパースター 日高正人


平成21年7月12日

無名のスーパースターと名乗る日高正人さんの歌手生活40周年記念ディナーショーにいって来た。
彼との出会いは、奈良西大寺のスピリチュアル・コンサルタント松鳥榮子師の紹介によるもの。
丁度、団塊の世代の応援歌「やじろべえ」をリリースしたばかりの頃だった。電通マンと聞いてこの曲の感想を求められ、彼の車の中で聞いた。一度で気に入り、フアンになった。和尚は、詩吟の講師をやるくらいなので、カラオケも嫌いではない。最近は、マイクを持つとまずは「やじろべえ」からだ。
会場の尼崎ホテルホップインにファンが約150名、美味しい料理と薩摩焼酎をいただき、彼の熱唱に酔った。尼崎には、鹿児島出身の方が多く住むとかで、彼も「第2の故郷」と語っていた。従って、会場の雰囲気は暖かく、まるでファミリーコンサートのノリだった。彼のキャッチフレーズは「無限のありがとう」。
親友の南こうせつさんが、メッセージを寄せている。
「人生は山あり谷あり、人それぞれ色んな思い出を背中にしょって歩いてゆきます。僕等歌い手は、苦しい時もたった一人で、もがきながらマイクに向かって声を出します。時にはボロボロになって、お客さんは離れていき、くじけそうになります。それでも歌うことが好きで、そしてずっと歌うことが出来る人は奇跡に近いです。つまり今も現役でいられるということは、それだけですごいことだと思います。これからもずっと歌って下さい。なぜなら日高さんの歌で勇気をもらっている人が全国に沢山いるからです。日高正人は幸せな男です。」本当に幸せな男と和尚も思います。今日までのベストアルバムを聞くと、素晴らしい楽曲に恵まれている。デビュー当時の歌声とは、別人だがそれはそれで、人生の味が染み込んできたからでしょう。ほのぼのと心温まるディナーショーだった。合掌
日高正人の略歴
昭和45年に歌手デビュー。昭和47年、日本テレビ「全国歌謡選手権」で10週勝ち抜き脚光をあびる。
昭和58年日本武道館ワンマンコンサートで1万2千人を動員し「無名のスパースター」と称される。
昭和59年日本演歌大賞特別賞受賞。平成4年薩摩大使に委嘱され、歌を通じて故郷鹿児島を全国に紹介。
最近では、映画やドラマに出演するなど、存在感あふれる演技で好評を得ている。

2009年7月11日土曜日

いのちの教育ー山形県高畠町立二井宿小学校

6月3日の朝、車の中でNHKラジオ「ラジオビタミン」を聞いていると、山形県高畠町立二井宿小学校の井沢校長がゲスト出演され、インタビューに答えていた。それを聞いているうちに、胸が熱くなり涙が込み上げてきた。
この小学校では、全校で農作業に取り組み、給食の自給率50%、白菜などにいたっては300%という。
一学年2品種、大根、白菜、ねぎ、人参、ジャガイモ、サツマイモなど6年間で12品種手がけることになる。それ以外に、高学年は水稲、もち米も育てている。
無農薬栽培のため、雑草を抜き、害虫を除去する日々の農作業の中でいのちの尊さを自然に学び、人と人との連帯、ご縁のありがたさを学ぶ。
ねぎの嫌いな子供が、低学年生が育てたものを残すわけにはいかないと、いつの間にか苦手を克服する。
田植えの前の泥田で、泥んこになって遊び、田んぼの中の小生物のいのちを知る。
沢山収穫できた野菜を、売りに出す。いくらで売ろうか議論する。スパーより高く?安く?同じに?結論は安くである。理由は、日頃、お世話になっている地元の方々に、せめてもの恩返しだという。地元の皆さんも、子供たちの育てた野菜を、競って買い求める。「がんばれ子供達!」の思いだ。
6年間の実践の中で、得るものの多さ、尊さに全国から視察が押し寄せる。
まもなく定年という井沢校長は、定年後は全国に指導に行かれるのかとの問いに「一百姓に戻って一から出直しです」と。
一草一木の供養塔「草木塔」があり、その詩を作り、曲を付け「草木塔の歌」として皆で歌う。
日本には、素晴らしい教師もいれば、すごい教育をやっている学校もある。和尚も小学校時代、高校時代にお世話になった先生のご恩は忘れられない。二井宿小学校の子供達、先生達、地元の皆さんに拍手だ。合掌

阪急トラピックス 四国4回 17番井戸寺~23番薬王寺

平成21年7月7日

七夕の火曜日、守口から16名のお客様と阿波の最終コースへ出発。和尚と一緒だったという方が5,6人いらっしゃった。添乗員は杉谷女史一人、バスは商都交通(高野ドライバー)。遍路ころがしのお山、20番鶴林寺、21番太龍寺を初日におまいりしようと計画、まずは17番井戸寺から。七佛薬師に圧倒され、日切り大師の面影の井戸に映る姿に安堵しつつ、鶴林寺へ。本堂で勤行中に強烈なにわか雨に遭い、ずぶぬれになりながらバスへ戻る。中型バスの利点で、大型では通行できない最短ルートを走り、太龍寺ロープウェイへ。せっかくのロープウェイも霧に包まれ、視界零。西の高野といわれるように大師堂は、高野山の奥の院と同じ様な配置になっている。先着のお遍路さんが、拝殿前でお勤めをし帰ろうとするのを見て、うらに廻ってご廟を拝んだらとお勧めする。そして本坊廊下天井の大龍画を鑑賞してロープウェイへ。20分間隔で運行のため、乗車時間の1時間後に山頂駅から下るのがいつものパターン。帰路の車窓から弘法大師の禅定のお姿がかすかに見えて、歓声があがる。
弘法の霊水、白水の井戸で名高い22番平等寺を打って、宿の徳島グランドホテル偕楽園へ。
この日は、3台のバスが出ており、先達3人、添乗員2人で部屋で懇談会。なかなかこんな機会はないのだが、結構前向きな話しが多く、お互いに参考になる一時だった。
8日の朝は、ゆったりとしたスタート、8時半に18番恩山寺に向け出発。屋島の戦いに際し、源義経が上陸したのが、この地点で石碑が立っている。また、近くの丘には、義経の馬上姿の大きな像がある。
この寺は、大師の母君ゆかりの寺で、大師堂に隣接して玉依御前の剃髪堂がある。
立江の地蔵さんで名高い19番立江寺では、阿波の関所寺として有名な黒髪堂を拝み、23番薬王寺へ。全国的に有名な厄除けの寺で、「鳴門秘帳」や「空海のある風景」などの舞台ともなっている。
和尚にとっては、師僧である砂原秀遍東寺長者の修行の寺であるので、感慨深い。還暦坂を登り、瑜祇堂で五智如来の解説をし、上層から海亀産卵の日和佐の海を愛でる。昨日とは打って変わり、上天気で絶景である。薬王寺会館で食事の後は、一路大阪へ。こじんまりとして、とても良い巡拝だった。合掌
                                                       
黒髪堂縁起
石見(島根)浜田の城下の櫻屋銀兵衛の娘お京、大阪新町で芸妓をしているうちに要助という男と結ばれ、21歳の時に故郷に帰り夫婦となった。やがてお京は、鍛冶屋長蔵と密通し、長蔵をそそのかして夫要助を殺し丸亀に逃げた。享和2年(1802)のお京27歳のことで、追ってから逃げるためか二人は遍路になって札所巡りをはじめ、立江寺に着いたのは享和3年春夕方のこと。本堂にぬかずくやいなや、お京の髪は逆立ち、本堂の前にたれている鉦に巻き上げられて、お京は高く吊り上げられてしまった。住職に助けを求めると、住職はことの次第を尋ね、お京が懺悔すると黒髪もろとも肉は剥げ、鉦の緒に残り、一命は助かった。その黒髪を祀る。二人は真人間になって近くの吉田山に庵をむすび、仏道に精進したという。(お京庵)

2009年7月8日水曜日

千手観音に導かれ(さぬき国分寺と五色台二寺)


平成21年7月6日

ひょんなことから香川県坂出駅に降り立った。時間があるので、お参りをと思い立ち駅前のレンタカー屋さんで車を借りて、3ヶ寺廻った。80番国分寺、82番根香寺、81番白峰寺でいずれも千手観音がご本尊だ。国分寺のご本尊は、十一面千手観音だが御真言は「おん ばざら たらま きりく」だから千手観音に重点が置かれていることになる。重文のご本堂の中に、中央に十一面千手観音、向かって右に不動明王、左に弘法大師が安置されている。大師堂は、納経所と一体になっている。広い境内には、往年の七重塔の礎石なども点在し、かっての豪壮さがしのばれる。
根香寺の仁王門の左山側に「牛鬼」像が立っている。弓の名人山田蔵人高清に退治されたという怪物である。仁王門をくぐると石段で一旦下り、また上る。「さぬき六景」の石碑があるように、新緑に抱かれた参道は美しい。弘法大師と甥の智証大師ゆかりの寺で、高松藩主松平頼重公が再興した際に天台宗に改宗させたとか。
白峰寺は、崇徳上皇のご廟(頓証殿)で有名。保元の乱で破れ、讃岐に流され9年後に崩御された。その哀しいエピソードは多い。参道のアジサイが最高だった。 (写真)

2009年7月3日金曜日

お四国の民謡 2 宇和島

宇和島おんど

空に浮かんだ 鶴島城を
ぐるり囲んだ 町模様
伊予の宇和島 十万石の
意気が波うつ 海のいろ
いっぺんキサイヤ オイデナセ ソレ
宇和島よいとこ オピデナセ

お国自慢は 和霊のまつり
街が湧きたつ 牛相撲
大漁祈願の 景気をつけて
港うずめる 幟船
(おはやし同じ)

戌年同行の会


平成21年6月29日

小雨交じりの天候の中、「戌年同行の会」の日帰り参拝ツアーが、9時に堺駅前を出発した。関西花の寺・天台宗「應聖寺」で沙羅を愛で、真言宗大本山須磨寺を参拝するコース。この同行の会は、先の戌年(平成十八年)の1月から一年かけてお四国を結願したメンバーの集まりである。堺方面の面々は、回を重ねる毎に親しくなり、結願後も交流を継続しようと結集したもの。2月の懇親会と6月の参拝が恒例化しつつあるが、第一回の懇親会から和尚に声がかかり、何度か添乗した先達として参加させていただいている。昨年は、「東寺の特別拝観と神光寺参拝」を企画、今年は、仏教稲門会のメンバーに一肌脱いでもらい、このコースとなった。「應聖寺」では桑谷祐顕住職は、叡山学院の講義で不在であったが、お母様の懇切丁寧な説明と奥様の抹茶のご接待で、皆、大満足。お昼は、ご紹介の「もちむぎのやかた」、これまた珍しく、大好評。そして、須磨寺に向かった。
塔頭「正覚院」住職の三浦真厳先輩が、門前でお出迎えいただき、約2時間近く、境内の歌碑・句碑などをはじめ本堂、大師堂などをご案内いただいた。
日頃のご研究の資料なども用意していただき感謝 、感謝の参拝となった。
手土産かわりに、和尚の「よう、おまいり」をお渡ししたのだが、7月2日に三浦先輩からお電話をいただいたという。和尚の本を読まれて、奥様が同じ善通寺一高の同窓だとのこと。しかも、奥様は和尚が同窓会関西支部の事務局長であることもご存知だという。慌てて、名簿を調べると、確かに総会のご案内を差し上げている。
なんという奇遇であろうか。ご縁はありがたし。 合掌(写真は應聖寺の涅槃釈迦像)

恩師の墓まいり

平成21年6月27日

6月20日に開催された母校善通寺第一高等学校同窓会関西支部の総会に、和尚の同期である高畑保夫、佐藤方義両君が出席してくれた。ちなみに和尚は、事務局長を仰せつかっている。話題になったのが、恩師西川謙三先生のことである、平成10年に亡くなられ、佐藤君が葬儀にも参列とのこと。2~3年前の息子さんのお便りに京都にお墓を建立したとあったという。お世話になった悪がき3人、墓参りに行く事となった。同期のお姉さんにあたる上田利江先輩も同行したいと言うので、京都駅に集合し和尚の車でお墓のある東山「本山興正寺・霊山本廟」に向かった。
寺務所で、尋ねると若い尼僧が、案内をしてくれた。墓石を洗い、しきびを生けて読経し帰ろうとすると、寺務所から老僧が出てきて、「お話をききたいので、お茶でも」と引き止められた。問われるままに、「善通寺一高の教え子です」と答えると、なんと老僧は、昭和31年~34年母校で教壇に立ち、恩師と机を並べていたと言うではないか。すると上田先輩が「楠先生、私の担任でした」と声をあげた。それからしばらくは、昔話に花が咲いた。恩師西川先生は、生徒には厳しいが、暖かく、親身に面倒をみていただいた。しかし、職員室では、変骨で名高く、そのお陰か転勤知らず、定年までの25年間母校で英語を教えてくれた。
恩師の法名は「釈善一」。法名に母校の略称が使われているのを見て、涙を禁じえなかった。また、最初に我々をお墓に案内してくれた尼僧さんも、15年前に母校を卒業した同窓と聞き、ご縁の深さに驚くばかり。 合掌

お四国の民謡 1  庵治

庵治の民謡

舟かくし

よろいに残りし 香りやあわれ
舟をかくして きんだちは
いずちの山に いりたもう
今日も渦まく あおいしお
悲しや平家の 舟がくし
サノヨサノサヨ サノヨサノサヨ

かげをやしまは いりえにうつす
月があれば 銀の渦
黒かみながき 姫のたつ
扇の的ば いてみよと
おぼろの夢や 舟がくし
サノヨサノヨ サノヨサノヨ

結願(阪急トラピックス 中部 第8回)


平成21年6月23~24日

名古屋からのバス(一行29名)に西宮名塩SAからアシスタント吉井君と乗車、添乗員は上林嬢、バスは西濃華陽観光(野崎ドライバー)。まずは昼食、鳴門国立公園内の「うづ乃屋」。丁度、大潮とあって観潮船が数隻出ていた。
83番一宮寺、84番屋島寺、85番八栗寺と周り、宿は庵治観光ホテル。さぬき市の先達、櫻谷和香女史が焼酎とおつまみを差し入れしてくださった。櫻谷先達は、和尚の先達としての姉弟子にあたる。和尚に先達になるようになるように勧めてくれた故六車法善師のお弟子で、和尚夫婦も何度かバスでご指導を受    けた間柄。 24日は、さぬき市の結願コース3ヶ寺。86番志度寺、87番長尾寺、そして結願所88番大窪寺を打つ。
88番での記念撮影、1番での写真と比べると、皆、とても良いお顔になっているはずだ。また大窪寺は、和尚の先達としての推薦寺でもある。槙野恵純住職にご挨拶に行くと、皆さんでと「鈴の音紀行」(和菓子)を4箱もいただいた。昼食会場の「飛猿閣」で配らせていただいた。こちらにも「よう、おまいり」を置いてもらっている。お買い上げいただいた方に、せっせとサインさせていただく。ありがたし。
合掌

ご縁(読売奈良・四国9回 41番~45番)


平成21年6月21~22日

読売旅行奈良営業所主催のお四国バスに添乗。
第8回にも添乗していたので、40名中30名は同じ顔ぶれ。
今回は、前回と話がダブらないように気をつけた。添乗員は、石津・沖のさわやか青年コンビ、バスは奈良観光バス(喜多ドライバー)。初日は、バス遍路では最大の難所45番岩屋寺から、最低30分は、山道を歩かなければならない。皆、汗だくになりながらの参拝で、最後にたどりついたのは、80歳を超える木村のおばあちゃん。権大先達の資格を持つ。岩屋寺の大西完善住職は、早稲田の先輩で「関西仏教稲門会」のメンバー でもある。納経所を訪れ、ご挨拶。44番大宝寺門前「すごうさん」でお茶のご接待を受ける。和尚の「ようおまいり」も置いてもらって懇意にいていただいている。
ホテル奥道後に泊まり、2日目は、源氏ゆかりの43番明石寺、弘法大師が唐から投じた宝珠が起こりの42番佛木寺、神仏同居の41番龍光寺と打って真珠会館で昼食。
森田澄江社長に、いつもいただくハンカチを選んで四方山話しをする内に、共通の友人の名前が飛び出した。
早稲田の稲吟会(詩吟クラブ)で同期の井上三郎君である。彼は軟式野球部にも籍を置いていたと記憶するが 、卒業後地元の新聞社愛媛新聞に編集記者として入社、最後は広告局長を務めた。和尚の電通時代に松山ロータリークラブで欧米のシルバービジネスに関する卓話の機会があったが、彼が駆けつけ記事にしてもらったり、お遍路本の編集を彼が手がけている時には、先達として取材を受けたこともある。
そんな親しい彼と高校の同級生というでは、ないか。そうすると私とも同じ年ということになる。ご縁とは不思議なもの、本当に世間は狭い。一遍に、旧知の友のように打ち解けた。
お土産にと、真珠会館オリジナルで、ここでしか販売しないというチョコレート菓子「パール スイート クランチ」(15個入り・630円)をいただいた。「宇和島市推奨品」で、ひとつひとつ包装されているところから、出張のお土産として皆に配るのに便利と、良く売れているとか。歯ざわりがサクッとして美味しい。
そうそう、龍光寺門前の「風月庵」で和生菓子「福印黒糖饅頭」と「福印吹雪饅頭」のご接待をいただく。 黒糖饅頭は、漉し餡と黒糖、吹雪饅頭は、粒餡と山芋粉がアレンジされているが、結構大きくて好評のようだ。ご縁に感謝、感謝の遍路旅であった。 (写真は岩屋寺大師堂・重文)          合掌

2009年6月26日金曜日

トラベル日本 西国8回 25番~27番

平成21年6月17日

久しぶりの西国順拝、25番播州清水寺、26番一乗寺、27番圓教寺の3ヶ寺。難波のOCTから乗車し、梅田を経由して、逆打ちでまわる。お客は31名、添乗員は民部、木谷の男女ペア、バスは日本交通(安井ドライバー)。今回の見所は、御開帳中の圓教寺、摩尼殿で勤行の後、内陣に入り本尊如意輪観世音菩薩、四天王立像を心行くまで拝ませていただいた。また、大講堂で開基の性空上人像が御開帳、しかも鎌倉、平安期のもの二体。ご本尊釈迦如来、脇侍の文殊菩薩、普賢菩薩と合せてお寺の係員から丁寧な解説をいただく。
文殊、普賢菩薩の立像というのも珍しいが、手に何も持たないスタイルというのもあまり拝見しない。係員にも質問して見たが、お姿より釈迦の脇侍ということでの文殊、普賢という判断だろう。
播州の田舎道を走行中に目に付いたのぼり、田植えの終えた「たんぼ」に立ててある。「山田錦契約田」とかかれてある。なるほど、酒どころも近いと納得。

2009年6月19日金曜日

阪急トラピックス 四国9回 52番~59番


平成21年6月15日~16日

弘法大師のお誕生日の15日、梅田経由難波8時半のバス遍路が今治方面の札所へ向かった。添乗員は、高橋、福田のギャルコンビ、バスは商都交通、住吉ドライバー。この日の高野山の誕生会の法要には、開闢以来はじめて天台座主半田孝淳師が参加するというので、注目をあびていた。
中国道三木SA,鴻池PAで休憩後、13時ごろ石鎚山ハイウエイオアシス到着、「リンリン」にて昼食。食事(じきじ)作法はいつもの通り、弘法大師の御宝号を3唱し、
「一滴の水にも天地の恵みを感じ
 一粒の米にも万民の労苦を思い
 ありがたくいただきます。」と唱える。そして「いただきます。」
この唱え方には、和尚は異論がある。
そもそも十善戎の第一に「不殺生」とあるが、これはあらゆる命を持つ「衆生」に対するものである。しかし、我々は、生きるために命あるものを食さねばならない。殺生して活かされているわけだ。だから、「いただきます」の本意は、「あなたのお命いただいて、活かさせていただきます」ということなのだと思う。
15日は、国分寺、栄福寺、仙遊寺の3カ寺。国分寺前の「五九楽堂」さんが、いつもながらミニタオルのご接待を全員にしてくださる。ホテルは、道後温泉ホテルルナパーク。道後に来ると、必ずご挨拶にゆくのが商店街にある柴田晴石さんのお店、一見すると砥部焼きのお店のようだが、奥に入ると象牙製品が置いてある。
柴田さんは80歳を超えたが、日本では有数の象牙細工師なのだ。
道後を案内して欲しいという男性客二人を伴って、散策の後は、地ビールのお店へ。坊ちゃんビールにじゃこ天という定番メニューで、おしゃべりの一時、「魂魄合せて、人は生き、魄は滅びても、魂は死せず」などと
話をさせていただいた。(ご接待感謝)
16日の朝一番は太山寺へ。駐車場から、本堂へ歩いていく参道がなんといっても素晴らしい。心洗われる思いがする。円明寺、延命寺、泰山寺、南光坊と見所を解説しながら周り、少し遅めのお弁当は、鈴木弁当店の
「醤油めし」。結構ボリュームもあり、美味だった。
帰路は、しまなみ海道経由、大三島で「しまなみ宝船」に立ち寄り大阪へ。難波18時30分着。

2009年6月14日日曜日

お遍路さんの作法(3) お遍路さんの姿

平成21年6月14日

今回は、作法というより、お遍路さんのお姿について書かせていただきます。基本のスタイルは、白衣(道中衣)に菅笠、金剛杖。(和尚は遍路の3点セットといいます。)それに輪袈裟です。
このスタイルの意味するところは何でしょうか?ずばり、死に装束です。
「私が行き倒れになったら、着の身着のままで道端に埋めてください。すでに死に装束の白衣を身に付けています。」「できた土饅頭に菅笠を乗せてください。始めから葬送の道具である笠をかぶって歩いています。」
笠には、4行の偈がかかれていますね。『迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何故有南北』本来この偈を書いた笠を棺桶に乗せて死出の旅立ちの道具としたのです。
「そしてその土饅頭に金剛杖を突き立ててください。墓標を杖として歩いて来たのです。」
金剛杖の上部に袱紗がかかっていますね。あれは手の滑り止めではありません。中に五輪の塔が刻んであるので、守っているのです。下部から「地・水・火・風・空」、つまり角卒塔婆です。
そして、輪袈裟は、我々僧侶が法要の際に身につける袈裟を折りたたんだものといえます。ですから尊いものです。従ってトイレに行くときや、食事の時には外しなさいと指導されるでしょう。
最近のお遍路さんは、3点セット+輪袈裟というスタイルの方が少なくなりました。残念なことです。合掌

2009年6月12日金曜日

小雨の高野山

平成21年6月10日

電通関西支社の社友会(OB会)主催のバスツアーで高野山を案内することになった。和尚をいれて総勢20名(男女半々)、大先輩とそのご家族、友人で和尚が最若輩だ。8時半に電通集合、バスは奈良観光バス(大西ドライバー、瀬川ガイド)。
和尚が用意した資料は
①高野山縁起(後宇多法皇御幸記を中心に)
②高野七口の地図(七つの登山道)
③山内案内図
④訓読み般若心経
⑤自由訳・般若心経(2005年 新井満)
⑥勤行次第
バスは阪和道泉南ICを下り、根来街道、かつらぎ町、国道480号を経由して高野山へ。トンネルの開通で、従来の九度山ルートに比べ、曲がりくねりが少なくうんと楽になった。
根来寺を通過する際に、新義真言宗や興教大師覚鑁について解説。一度の休憩で、11時ごろに壇上伽藍に到着。大塔に入堂して五智如来を拝す。
昼食は、いつもお世話になる「無量光院」で精進料理。皆、寺生の内海師のお酌で麦般若、般若湯をいただく。大先輩達はご満悦の表情。内海師は、和尚が大学道場で修行中の折の指導員の一人、目下「無量光院」の寺生として大学院に通っている。いつもお世話になり有り難し。

小雨の中を「中の橋」から「奥の院」への参道を歩く。各企業の供養塔や各宗始祖の墓、諸大名の墓などが続く。奥の院参拝がはじめての方は、感動しきり。ご廟の前で、職員の話し、「インフル騒動で、参拝客が激減、誕生会の15日に向けて、毎年満員の宿坊に空きがある。はじめて比叡山の座主さんがお見えになるというのに・・・」。お陰で、社友会の一行は貸切状態の奥の院を堪能させていただいた。(和尚は納経帖持参で、14周目のご朱印をいただいた)。森下商店の名物「胡麻豆腐」などお土産を買い込み下山。

帰路、日本ではじめて全身麻酔による外科手術を行った華岡青洲の館を見学。(元診療所跡)
乳がんの手術法を図解した巻物なども展示されていた。

予定通り、17時半に電通到着。車内での飲み物からおやつまでご手配の鈴木・信岡両先輩を始めとする幹事の皆様、お疲れ様でした。

解散後、藤本・曽我見両先輩と昔馴染みの「楽苦美」で一献。久しぶりに会うラグビー仲間の露口店主は、すっきりとスリムに変身し、元気そうだ。

和尚は、お布施までいただき、申し訳けなし。次の機会には、京都・東寺の特別拝観をご案内します。合掌

阪急 四国3回 12番焼山寺~16番観音寺

平成21年6月9日

梅田を経由してバスは難波を8時15分に出発。豊岡添乗員、堀アシスタント、日本交通バスの森本ドライバー、中村ガイドそして和尚の5人チーム。お客さんは36名。
淡路SA,鳴門西PAで休憩後、12番焼山寺に向かう。焼山寺は、「遍路ころがし」といわれる険しいお山のひとつ。鮎喰川を上流まで上ったところでマイクロバスに乗り換え山頂へ。
途中に「杖杉庵(じょうしんあん)」がある。
「杖杉庵」は、遍路の元祖と俗説にいわれる衛門三郎の終焉の地。衛門三郎は、伊予松山郊外荏原郷に屋敷を持つ長者であったが、強欲で托鉢にきた空海を二度に渡って追い返し、二度目は、竹箒で空海の持つ鉢を叩き割る。鉢は八つに割れたという。三郎には8人の子供がいたが、翌日から毎日一人づつ亡くなり、皆亡くなってしまった。三郎は、ようやく自分が手にかけた僧が空海だと悟り、一目あってお詫びがしたいと後を追うのである。しかし20周廻っても会うことができず、そこで逆に歩けば会えるに違いないと、今で言う「逆打ち」を試みる。死を目前にした三郎がようやくめぐり会えた地がこの「杖杉庵」の場所なのである。
両手をついて懺悔する三郎に、罪障消滅を告げ、来世の望みを聞くと「国司の家に生まれかわりたい」という。そこで小石に「衛門三郎再来」と墨書して手に握らせ、埋葬して墓標代わりに金剛杖を立てたが、その杖から根が出て大きな杉に成長した。その故事にちなんで「杖杉庵」というのである。(今の杉は2代目とか)
後年、伊予の国司、河野家に男児が誕生する。しかしいつまでたっても、握った手を開かない。心配になった国司が、菩提寺の「安養寺」の住職に頼み、加持祈祷をしてもらうと子供は手を開き、中から「衛門三郎再来」と書かれた小石がころがりでた。その奇縁により「安養寺」は「石手寺」と改称、それが51番札所。

そんな話をしながら上りきると駐車場、山門までの整備された参道の山側斜面には、不動明王を始めとする数体の大石仏が寄進され安置されている。独特の雰囲気だ。境内には、樹齢数百年級の杉木立が林立し、訪れるものを圧倒する。虚空蔵菩薩をまつる本堂右には新築の大師堂、左には三面大黒天堂。本日の打ちはじめなので、本連念珠の使い方、3通りの合掌を解説しおまいり。

13番大日寺までの車中でお弁当を食べていただきながら、寺の縁起を説明する。大日寺なのになぜご本尊は、十一面観音なのか?とか「幸せ観音」、そして本堂の柱に残る「横綱大鵬」の納め札・・・
14番常楽寺の境内は、別名「流水岩の庭」と称せられるように急流の川底状になっている。また、お四国では唯一、ご本尊は弥勒菩薩。アララギの大木の幹の枝分かれの空間に石造の大師像が安置されている。(アララギ大師) 
14番から15番国分寺までの800mは、まったくの歩き遍路。途中にある「真言八祖」を祀るお堂で、一旦皆を掌握し、おまいり。本堂の「リン」を使って叩きかたの説明、「リン」の円を時計の文字盤に見立て、7時のところを打ちから外に甲乙(強く弱く)に2打する。(意外と知られていないが、和尚は大学の道場で厳しく指導を受けた。)大師堂でのおまいりの際に、練習してもらった。この寺で頒布する大判の「うすさま明王」のお札を求める方も。(大師が唐から請来した明王で、トイレに貼る。下の病に効能)
16番観音寺の本堂も近年新築されたもの。旧本堂の古材を随所に使用している。大師堂の右には「夜泣き地蔵」も。この寺には、大師直筆の光明真言の梵字の印版が伝わり、白衣(道中衣)の両襟に半分づつ刷り込んでもらうことができる。(1500円)おまいり後、6人ほどが、列をなし、それを待って帰路に。
阪神高速の渋滞もなく19時過ぎには、難波に帰着。電通の先輩の友人や、隣町香芝在住の方も同乗で、今日もまた、良いご縁をいただいた。合掌

癖馬(くせうま)人生

平成21年6月8日

四条畷市清滝に宗教法人「成友会」の道場がある。会長の小笠原 達師は元立正佼成会豊中教会の教会長をされていたが、東京転勤の話が起こるや、大阪に留まって欲しいという会員の懇請を受けて退職し、独立したもの。20年前のことである。その以前より、宗教新聞「中外日報」の記者であった和尚の兄弟子である土口哲光師(現・東寺教化部長)との親交があり、和尚は、そのご縁で小笠原会長の「自叙伝プロジェクト」に参画することとなった。
今秋の発刊を目指してのサポートチームに「たる出版」副社長揚野 寛氏、編集工房エディト岡弘俊己氏の両氏に参加を願い、作業は半ばを過ぎたところ。小笠原会長のお招きで、土口哲光師とチーム3人が昼食の卓を囲むこととなったわけである。成友会幹部の方々とのなごやかな食事の後、書名をどうするかとの話題になった。
小笠原会長が師と仰ぐ故庭野日敬立正佼成会会長から付けられたニックネームが「くせんま」だという。どういう意味か一瞬わからなかったが、これは四国の方言で漢字で書けば「癖馬」だという。なるほど組織の中に納まりきれない、前向きな姿勢を評してのことか。早速これをいただき、タイトルは「癖馬(くせうま)人生」、そして毎日の法話のテーマである「煩悩即菩提」をサブタイトルとして加えることとなった。
      「癖馬(くせうま)人生」 
              -仏の命・煩悩即菩提ー
波乱万丈の人生、悩める人々と共に悩み、救いの手を差し伸べる人生。今秋の発刊が待ち遠しい限り。合掌

2009年6月6日土曜日

遍路閑話

平成21年6月6日

遍路仲間の西岡看護士に誘われて、お昼を一緒することに。キャベツ1コを持参することとの条件がついている。我が家から、車で15分位、キャベツを仕入れ訪問。それがなんと「野菜の重ね煮」の料理講習会、感動しました。講師は、長野から4時間走ってきたという自然食研究家の山岡孝幸氏、本業は一級建築士。野菜を一定の法則で、順に積み重ね、とろ火で煮込むだけ。少しお塩を入れるだけで、野菜相互の旨みがかもし出され絶妙の味になる。そのままいただいたが美味。それをベースにいろいろな料理に展開できる。しかも冷蔵庫で保存すれば、1週間から10日は、大丈夫という。「山川草木悉皆成仏」を肌で感じた一時だった。

また、遍路仲間の大阪市福島区の山科さんからお便りをいただいた。早速、和尚のブログを読んでいただいたとのこと。しかもお嬢さんに、プリントアウトしてもらってとのこと。ありがとうございます。
6月も阪急トラピックスのバスで32番禅師峯寺から37番岩本寺までお参りの由、ぜひ35番清滝寺のお薬師像の台座にある戒壇巡りをご体験ください。漆黒の闇を経験する良い機会と思いますよ。

遍路仲間というより、「プロ遍路」の域に達していると和尚が思う武知悦子さんから絵葉書。鎌大師でご両親の月まいりを済ませ別格の慈眼寺へ向かったとのこと。相変わらずの歩き遍路の様子で、元気そう。和尚の錫杖がお供しているようだ。

2009年6月5日金曜日

お遍路さんの作法(2)

「出鐘は突くな 」
境内に梵鐘がある時、どのタイミングで突きますか。山門を入って、おまいりの前に突きましょう。
おまいりの後に突くことを出鐘といい、「お財布からお金がでていきますよ」というのです。
「入り鐘」を突きましょう。

「橋の上では、杖をつくな 」
弘法大師は、高野山奥の院でご入定されていますが、今なお、全国を遊行され衆生をお守りいただいています。この橋の下で、仮眠されているかも知れないので、杖をついて妨げないようにというのです。
かって、伊予の国大洲のあたりを巡錫中の大師は、一夜の宿を求めるも、農繁期で多忙の為か、どなたも泊めてくださいませんでした。やむなく大師は、橋の下で野宿をされましたが、あまりの寒さに「一夜が十夜のごとく感じられた」といいます。
その橋は「十夜ヶ橋」といい、別格二十霊場の札所となっています。橋の下には、横になって仮眠されている大師の石像があり、寒かろうというので、お布団が奉納されています。
そのとき大師は「生死の六道に生き悩む衆生をして、早く信仰の橋を渡らし、常楽の彼岸に至らしめん」と大悲の御心を歌に詠まれました。
     
         いき悩む浮世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋と思ほゆ

お大師さまのお導きー20年振りの再会

平成21年6月2日
 和尚が、電通関西支社の新聞雑誌局で中央紙を担当していた20年前、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が開通した。その記念に橋をはさんで岡山と香川で博覧会が開催された。電通は中央5紙と計らい、記念特集を組むこととなり、広告は5紙共同プロモートで共通紙面を作ることとなった。手分けし、チームを組んで東京や大阪など関連業界や企業を駆け巡ったのだが、和尚の担当は、岡山、香川の両博覧会の事務局であった。
 その頃の電通高松支社長が、筏壮児先輩で、大変お世話になった。2月23日付四国新聞に掲載された和尚の「月曜随想」をご覧になってお便りをいただいた。高松で一献やろうというのである。四国への遍路バスには乗るものの、中々機会がなかったが、6月2日に開催される徳島での「引導作法」の講習会に引っ掛けて、高松に寄らせていただくことにした。
 せっかくなので、遍路仲間の櫻谷和香先達(姉弟子)、池田實氏も合流させていただくことにして、会場の「喜代美山荘 花樹海」に赴いた。お待ちいただいていたのは、筏先輩をはじめ、かっての博覧会協会事務局長で元副知事の本多英信氏、NPO法人遍路とおもてなしネットワーク 理事の二ノ宮博之氏、ソニーのシニアマネージャーの倉持誠一氏そして東京大学名誉教授、竹内信夫氏。竹内教授は、高野山大学院でも講座を持たれている。一同に会してみると、友人の友人はまた友人のたとえのように、本多氏と元連合香川会長であった池田氏とは旧知の仲、自己紹介をし、弘法大師の幼名「真魚」(まお)をブランド名にした地酒で乾杯にいたると、お四国や善通寺、共通の友人の話など話題は尽きず、夜遅くまで歓談は続いた。
 次の日は、高松市牟礼にある「ジョージナカシマ記念館」にご案内いただいた。ジョージナカシマは、米国籍の日系二世の世界的家具作家、1964年にはじめて高松を訪れ、地元職人達を中心とする「讃岐民具連」を知り、参加。この記念館を運営する桜製作所の協力を得て1968年から8回の「ジョージナカシマ展」を東京で開催、1990年に亡くなった後も、彼のデザインの家具は、米国ニューホープの工房と高松の桜製作所の2ヶ所で作り続けられているという。
 木目の美しい無垢材を使った手作り、木の特性を活かした構造とシンプルで知的なデザインが、素晴らしい。http://www.sakurashop.co.jp/
 お昼は、元与力屋敷という讃岐料理「郷屋敷」。二ノ宮氏の友人がはじめたお店で、当時うどんが2~300円の時代に1000円のうどんの店を出すというので、友人達がすぐ立ち行かなくなると心配したそうだが、なんと行列のできる有名店に。なんといってもたたずまいが素晴らしいし、襖絵も見事。筏先輩も、出張で訪れる会社の幹部を案内して良く利用したという。釜揚げうどんを所望したが、天麩羅もおいしく、和尚一人うどんを追加。
 櫻谷先達、竹内教授の到着を待って、真言宗善通寺派「願興寺」の観世音菩薩(重文)を拝観に向かう。願興寺の「笑顔講」の皆さんを東寺から高野山にご案内したこともあるので、ご住職夫妻とは顔なじみ。目下、本堂の新築中で、竹内教授は、こんな機会はめったにないと骨組みなどに興味深々の様子。
 収蔵庫を開けていただいて観音様と久しぶりにご対面、お顔が興福寺の阿修羅像に相通ずるところがあると感想を述べると教授も同感の由。同時代のものだけに、工房も同じかもとの教授の意見。
 ゆっくりお話を伺う暇もなく、和尚は、大阪早稲田倶楽部の理事会に出席すべく大阪へ車を走らせた。理事会に、電通の山下元副社長が出席されていて、筏先輩のお世話になったとお話しすると、彼は元気だったかとなつかしそう。
 本当にありがたいご縁をいただいた2日だった。弘法大師のお陰ですと筏先輩はおしゃっていたが、
まさにその通り。南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛。    合掌

読売旅行(奈良)四国8回 37番~40番

平成21年5月31日
 大和西大寺駅南口8時集合。ここからは22名が乗車し、総勢は44名。お四国では最長のコースとあって奈良観光バスのドライバーは岡田、炭本両氏の二人体制、添乗員は、久保田、佐藤のギャルコンビ。
 読売奈良の遍路バスは、毎回訪れるお寺の案内を「つづづれ旅情報」としてお客さんに配っている。中々の力作で、和尚が教えられることも多いすぐれもの。また、毎回必要な納め札を配っているのもお客さんにとっては、ありがたいサービス。
 阪神高速神戸線の工事渋滞で若干の遅れをみたが、淡路SA、吉野川SA、道の駅「かわすその里・すさき」で休憩の後、14時半過ぎようやく37番岩本寺に到着。
 岩本寺は、ご本尊が5体あり、各々のご真言を唱える。ご本尊以外に 脇侍の佛が幾体かいらっしゃることは、多いが、不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の5体がすべてご本尊というのは、大変珍しい。本堂の格天井の絵は、昭和53年の新築時に全国から公募したもので575枚あり、花鳥風月は勿論のこと、マリリン・モンローの肖像画まである。
 駐車場の隣に「手作りアイスクリームの店・此処や」があり、変わり風味のアイスが評判の店。きな粉、しょうが、青海苔、バニラ、ミルク、緑茶の風味から2種類を選ぶことができる。(200円)いつもながらの行列で、皆さんおいしいと好評。
 時間との競争で、39番延光寺に着いたのが16時半、火災予防の観点からローソク、線香を自粛し、「運心」ということでおまいりしてもらうことに。延光寺は、赤亀が竜宮城から梵鐘を背負って帰ってきたとの伝説からご朱印が亀の図柄で、20番鶴林寺の鶴のご朱印とセットにして道中衣(白衣)の押してもらう遍路も多い。和尚のバスの皆さんも大半が、押していただいたようだ。また、弘法大師の「目洗いの井戸」で霊水・宝医水を汲み、眼病封じにまぶたに塗る人も。
 足摺岬の曲がりくねった道を抜け、宿の「海上館」到着は18時半。ウエルカムドリンクとして土佐の銘酒「司牡丹」が振舞われ、部屋に荷物を置いてただちに夕食。鰹のタタキにブリの刺身を中心とする「さはち料理」をいただく。
平成21年6月1日
 早朝4時、鳥の声で目覚め。5時ごろの日の出を拝もうと散策に出る方も。玄関前の3mの大サボテンに黄色の花が満開状態。さすが南国と感嘆の声しきり。朝食時に各自のペットボトルに冷茶のサービス。
 7時半出発、38番金剛福寺に一番乗りにもかかわらず、本堂前はすでに打ち水が打たれすがすがしく感じる。境内中央に建設中の岩を配した大池も、ほぼ完成し、中には金魚も。大師堂前で清掃中のご婦人二人と朝の挨拶を交わし、お勤め。お堂の左手に安置されている五智如来について説明、特に大日如来の印や菩薩形のお姿の意味などを話したが、お二人も一緒に聞き入り、お礼を言われたのには恐縮。 おまいりの後、「七不思議」を解説しながら岬の展望台から灯台を一巡り。
 40番観自在寺に向かう車中で、新井満の「自由訳・般若心経」の素晴らしいポイントについて説明する。昨夜、希望の部数を宿にコピーして貰っておいたもの。僧侶や学者の訳は、言葉にとらわれて、どうしても難解なものになりがちだが、自由訳と名打つように、真髄を捉えてとても解かり易い。
 観自在寺には、弘法大師が刻まれた舟形の「南無阿弥陀仏」の宝印が残されており、さらしに刷り込み授与している。病気平癒に功徳あるとして求める遍路も数多い。(1500円)
 大師堂前には、五鈷杵を中心に右に三鈷杵、左に独鈷杵の大きな法具が安置され、お遍路さんがなでて功徳をいただく。またお堂をぐるりと一周する八十八ケ所のお砂踏みがあり、正面に戻ると奥の院ということになっている。御宝号を唱えながら、皆で一周。 境内には「薬子の変」で鎮圧された平城上皇がこの寺で、剃髪されており、その遺髪を納めた五輪塔 がある。
 無事、打ち止めして昼食は四万十川に面する「アカメ館」。鰻や川海老など四万十川にちなんだお弁当。添乗員から観自在寺で預かったと、「七福神」の色紙を届けてくれた。お寺の御心遣い。感謝。
 往路を逆にひたすら走り、西大寺着は20時半。二人のドライバーさん、本当にお疲れさまでした。
次回の予定を確認すると、皆さん6月21日発というではないか。すると先達担当は、和尚ということになる。お客さんは、大喜びだが、さて次回はどんなお話をすべきか、宿題が残った。
 道の駅で、お客さんから土佐名菓「一豊の妻」をお土産にご接待いただいた。ご馳走様です。合掌

2009年5月29日金曜日

お遍路さんの作法(1)

平成21年5月29日

遍路バスなどで、和尚がお話をしているお遍路の作法は、以下の通り。
   
1.境内は、左側通行
  
  特に階段は、狭いところが多いので、要注意です。そして、お賽銭や納め札のために本堂や大師堂の階段  を上がる場合は、時計回りで左から上がり向かって右から降りること。  これだけは、厳しく交通整理  させていただいている。
   
2.ロウソクは、上段から、線香は真ん中から

  これは、やけど防止。遠慮がちにロウソクを下段から、線香を端っこからさす方がいるが、これはマナー  違反。 

3.聖域に入る時出る時、「右入左退」

  これは高野山大学の道場で厳しく仕込まれた。入る時は右足から出るときは左足から。

4.お線香は3本
 
  「お線香は何本ですか?」と聞かれることがある。なぜ3本か。
        ①三世の諸仏に一本づつ
        ②佛・法・僧の三宝に一本づつ
        ③身・口・意の三密に一本づつ
   ①②は、仏教一般的な考え方で、③は密教的な考え方。


     
        
    

2009年5月27日水曜日

阪急トラピックス(中部)四国四回 24番~36番

平成21年5月25日~27日(2泊3日)

 名古屋からのお遍路の一行40名と香川県坂出駅で合流すべく、新幹線、マリンライナーを乗りついで、早めに到着し、まず出迎えの高知県交通バスの畑山ドライバー、「はちきん」の伊藤ガイドにご挨拶。伊藤ガイドと共に10時10分到着の一行を迎えた。
 初日は、土佐修行の道場の入り口24番最御崎寺から25番津照寺、26番金剛頂寺の3ヶ寺。
今、室戸では枇杷が旬で、特に黒耳産が一番などと話していたら、25番門前のへんろの店「夫婦善哉」に置かれた枇杷が完売状態。山門からまっすぐ急な108段の階段を登ってお参りをしてきただけに、身体が果物を求めていたのかもしれない。
 26番の駐車場の一角にJRの貨物車両を改造した店舗を構える「はらみたや」さんには、遍路バスはいつもお世話になっている。何しろ、駐車場までの道が狭く、バスが離合することができない。したがって「はらみたや」さんに電話し、降りてくるバスはいないか、問い合わせて登る訳だ。しかも和尚は、「よう、おまいり」を置いてもらっている。だからといって護摩をするわけではないが、この店の「アイスクリーム」ならぬ「アイスクリーン」(200円)は、田舎風味で絶品、「真珠入りの五鈷杵ペンダント」は、よそに比べ真珠は大きい上に、値段が安い(1000円)。ついつい宣伝をしてしまうと、これまた行列。ついでに本も数冊お買い上げで、早速サイン。
 
 そしてお宿は、土佐では3指に入るという「三翠園」。藩主山内容堂の下屋敷跡に建ち、しかも市内唯一の天然温泉ときている。正直なところ、遍路バスの一行が泊まるような宿ではない。
 実は、当初予定の「土佐ロイヤルホテル」がホテル側の手違いで泊まれなくなり、急遽、ホテルが手配したもの。しかも、ホテルが、お詫びにと、全員にお土産のお菓子まで用意とくれば、文句も引っ込むというもの。地元の伊藤ガイドが「うらやましい」を連発、なるほど素晴らしいお部屋に、料理に、温泉だ。ちなみに、夕食の献立は、「鰹のタタキ」「お刺身盛り合わせ」「アナゴと野菜の天麩羅」「鰻の柳川鍋」「茶碗蒸し」に「あさりの吸い物」など等・・・・・・
  
 2日目は、「へんろころがし」のお山のひとつ27番神峯寺から、「土佐ロイヤルホテル」からだと近いのだが、前述の理由で時間がかかる。さらにタクシーに乗り換えて山を登る。土佐の名水と称される
「神峯の水」を求めて殆んどがペットボトル持参。和尚達を運んでくれた丸中タクシーの社長の話しだとこの水を会社で飲み水として使っているとか。
 150mの急な坂道をあえいで登り、28番大日寺へ。大日如来について、少し話をさせてもらった。
そして土佐の苔寺とも云われる28番国分寺をおまいりの後、昼食会場の「かつお舟」に。名前の通り「鰹のタタキ」定食を堪能。ここでは食事(じきじ)作法
 午後からは、32番禅師峯寺、31番竹林寺、30番善楽寺と逆打ち。善楽寺では、4時半にかかり、
大師堂では、ロウソク、線香を止めて「運心」にしてもらう。これは、火災予防の為の申し合わせ。

 2日目のお宿は、坂本龍馬の屋敷跡に立つ「ホテル南水」。全館まるで龍馬歴史館の風情。土佐名物「さはち料理」と自慢の「かつをの炊き込みご飯」の夕食。夕食後は、和尚は一人、「ホテルタウン」に
移動。満室のため、先達さんは提携のビジネスホテルへとのこと。

 3日目、6時20分にタクシーが迎えに来てくれてホテル南水へ。皆さんと食事作法をして朝食の後、
7時半に出発。33番雪渓寺、34番種間寺、35番清滝寺、36番青龍寺を午前中に廻る。
35番から雨が降り出したが、和尚は傘を使わず、網代笠で済ませた。薬師如来の台座にある戒壇めぐりをすすめたが、途中で足の止まった方がいて大騒ぎ、持参のミニライトで出口から誘導し、ホット一息。36番は、昼食会場の三陽荘さんがご接待で、門前までマイクロ輸送してくれるのだが、参道で軽自動車が脱輪騒ぎを起こし、途中から歩くハメに。横綱朝青龍の明徳義塾高相撲部時代に、トレーニング場であったという山門から本堂までの階段を登りきると、バス3台分のお遍路さんで、大混雑。なんとか無事、3日間を打ち上げた。

 三陽荘のお昼は相変わらずの豪華版、鰹のタタキに煮魚など等に、トロロそば付き。聞けば昨日から本館前に足湯コーナーをオープンしたとか。さらに温泉も掘削中の由。和尚の本も置いてくれているのだが、お客さんがさらに数冊お買い上げいただき、ありがたし。

 食後は、月の名所「桂浜」で記念写真を撮り、しばしの散策。雨上がりの高速道路を坂出まで走り、
マリンライナーで岡山駅へ。和尚は、岡山で皆さんとお別れし、新幹線で大阪へ。
 今回もありがたいご縁をたくさんいただきました。お大師さまのお陰です。      合掌

2009年5月24日日曜日

お遍路の合間に

平成21年5月23日
 2月13日の第2回遍路バスに参加していただいた福島区の山科和子様から往復はがきでお便りをいただいた。だるまさんの絵に添えて「難所とや つなぐ手かたし 遍路道」とある。ご夫婦でおまいりなのか、はたまたお友達とおまいりなのか、いずれにしても2回目とすれば「10番切幡寺」と思われるが、すでに31番を過ぎていられるようなので、他かも知れませんね。
 お便りは、拙書「よう、おまいり」をごらんいたただきながらのバス遍路中に、同行の方から「その本は、どこで求められるか?」と尋ねられ、32番以降での販売所のお問い合わせをいただいたもの。
感謝、感激。さっそく、数ヶ所のポイントをお知らせしました。ご愛読ありがとうございます。
 折も折り、一本の電話。大和西大寺駅の公衆電話からで、今からお寺に行きたいがどう行けば良いかとのお問い合わせ。慌てて、寺に駆けつけお話をうかがった。倉敷市の公木さんとおっしゃる81歳の御婦人で、産経新聞に掲載された和尚のインタビュー記事をご覧になり、同じ香川県出身と言うことで、在阪中の時間をさいてお越しいただいた。どこにご縁が転がっているかと、感じいった次第。

 また、大阪早稲田倶楽部の宮本巌(昭36年政経)先輩より訳書「アーミッシュ カントリークッキング」
と「声石」第80号が送られてきた。ご本は、モンタナ州クーテナイ河西岸に住むアーミッシュの人々の大好きな料理を紹介したアンディ&ミイリ・ヨーダー著の本を先輩が訳し出版したもので、(社)日本図書館協会の選定図書となっている。料理のレシピも勿論だが、挿入されている敬虔なアーミッシュの人々に伝わる詩や短いことわざ(?)が心を打つ素晴らしいものだ。
 たとえばー
 「本当にいい友達とは、あなたをいつもあなたでいさせてくれて、それにもかかわらずあなたのことを好きでいてくれる友達のことをいいます。」とか
 「愛のために結婚するのは、少し危険かもしれません。でも、それはとても誠実なことなので、神様もそういう結婚には微笑まないではいられないのです。」とか・・・・・・
 同封された「声石」は、和尚が真言僧であるところから宗祖空海にまつわる記事が掲載されているのでとお心遣いいただいたもの。この記事は、成田シティジャーナル新聞編集者中島尚彦氏の書かれたもので、『日本語とヘブライ語のコラボレーションー君が代の由来』と題されている。
 「君が代」は日本語だけでなく、西アジアの言語であるヘブライ語でも歌うことができ、ヘブライ語の意味の方が明快でユダヤ民族の信仰告白が含められてとのこと。また古謡「さくらさくら」も同様にヘブライ語に置き換えることが可能で、このような詩が複数生まれたのには、両語に精通した人物が存在したと考えられ、その人の可能性がもっとも高いのが弘法大師・空海というのです。確かに空海は、当時最大の国際都市長安で学びましたから、当然いろいろな宗教にも造詣が深かったことは事実です。
 詳しい内容は置きますが、「君が代」の歌詞をそのままヘブライ語読みし、訳するとどんな歌詞になるか?それは
      「神の選民シオンの民は
       選民として喜べ 
       人類に救いが訪れ
       神の予言が成就した
       全地にあまねく宣べ伝えよ
       立ち上がれ、神を讃えよ」  となるというのです。驚きです。

 明日から2泊3日で阪急トラピックス(中部)主催の遍路ツアーに添乗してきます。またまた新しい「ご縁」をいただきにまいります。 合掌

2009年5月22日金曜日

四国第2回(阪急トラピックス)7番~11番

平成21年5月22日(金)
 大阪梅田から難波を経由してお四国に向かう遍路バスにお客様は44名の大盛況。淡路島通過時は、大雨だったが、徳島に入ると雨は上がり、かえって良いお遍路びより。本来なら7番から巡打ちで行く所だが、車中でお弁当をいただく都合上、11番からの逆打ちとして、11番から10番の移動中にお弁当を召し上がってもらうこととした。
 11番藤井寺は、臨済宗のお寺で、本堂外陣天井の30畳大の雲竜図が圧巻。10番切幡寺は女人即身成仏の寺として名高く、高台の大塔から眺める景色はまさしく絶景。この大塔は、大阪住吉神宮寺に豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔う為、建立した東西両塔のうちの西塔。明治の神仏分離令に伴い神宮寺が廃寺となり塔も壊される運命にあったのを十年かけて移築したという。我国唯一の建築方法とかで重文指定。弘法大師ゆかりの「はたきり観音」が本堂右手に建つ。タクシー組と徒歩組に分かれたが、噴出す汗も門前の金山商店の冷茶のご接待で吹き飛んだ。和尚の「よう、おまいり」も置いてくれていて、お買い上げの方には、「同行二人 沙門秀寛」と日付をいれてサイン。
 9番法輪寺門前の草もちが名物と話すと、女性客が殺到。一ついただいてみたが、さすがに噂どうりのもの。8番熊谷寺の本堂では大読経の声が天井にこだまして、皆、恍惚状態に。四国最大級の大門
や最古級の多宝塔、そして流れるご詠歌の声、とてもしっとりとした雰囲気のお寺である。
 本日の打ち止めは7番十楽寺、おとぎ話のような竜宮門をくぐり境内へ。本堂をおまいりし、治眼疾目救済地蔵、大師堂へと廻る。白塗り役者顔のお大師さんに「本当にいい男」との女性の感想。愛染堂に皆で上り、煩悩即菩提の愛染明王におまいりする。
 帰路の車中で、勤行次第の各々の意味について解説、2回目とあっておまいりの作法など基本的なことの復習、確認もあり、十分なお話も出来かねたが、お客さんには、喜んでいただけたようだ。
 いつもながら「ご縁」に感謝、今度お会いするときには、立派なお遍路さんになっていることでしょう。
                                                         合掌

秀寛和尚の自己紹介


田尾 秀寛(たお しゅうかん) 
          八尾市黒谷4丁目24
                 信貴山釋迦院秀寛庵 院主

平成11年東寺長者砂原秀遍猊下(当時は事務長)を師僧に得度
香川県善通寺市出身、昭和21年生。四国霊場75番総本山善通寺の境内が幼少時の遊び場だったこともあり、いずれは僧侶になるお導きだったのかもしれない。県立善通寺一高から早稲田大学商学部を経て、世界一の広告会社電通に入社。定年の2年前に早期退職制度を利用して退社、高野山大学の大学院にて密教学専攻、学生にまじり大学の道場にて四度加行も成満し、平成20年1月東寺にて灌頂。東寺真言宗の大僧都に補任される。大学院での修士論文の代替として、四国八十八ケ所を歩き遍路し、その体験記を「よう、おまいり」のタイトルで出版。
四国八十八ケ所霊場会、四国別格霊場会、西国三十三所札所会の三霊場会の公認先達として 「弘法大師の語り部」を目指す。
平成29年4月 東寺真言宗「少僧正」に昇補。
趣味は、大学時代からの詩吟。(吟道関心流 総範師・講師)