2009年9月30日水曜日

覚王山 日泰寺

平成21年9月30日

日本の仏教界あげての唯一のお寺が「覚王山 日泰寺」であることを御存じですか?現在仏教19宗派の管長が3年交代で住職を勤め、お釈迦様のご真骨が祀られている超宗派の寺院なのだ。
BC383年釈迦はクシナーラーで入滅し、荼毘にふされた。その遺骨は、八つの国や部族に分けられ、釈迦族の本国で釈迦も出家するまで住まいしたカピイラヴァットウ城にも分骨された。明治31年(1898)1月そのカピイラヴァットウから13キロ離れたインド領ピプラーワというところで、英国駐在官のウイルヘルム・ペッペが古墳の発掘をしている時に水晶製の骨壷を発見した。その壺には、「釈尊の遺骨」と古代文字で銘刻され、釈迦の真実の遺骨と断定された。そしてそれはインド政府に提出されたが、仏教徒が人口の1%というインドでは、ありがたくもなかったのか、シャムの王室に贈呈された。(壺はニューデリーの博物館に安置)
シャム国王チュラロンコンは、大喜びし、ワットサケットに祀ったがその喜びを同じ仏教国で分かち合おうと、セイロンとビルマにお裾分けしたのである。それを聞いた日本の駐在公使・稲垣満次郎がうらやましくてたまらず、日本にも分骨して欲しいと国王に懇願、「日本国民への贈り物」としてそれが認められた。
明治33年6月仏教界13宗56派の代表がバンコックで遺骨を拝領した折、遺骨奉安の寺院を超宗派で建立する旨、約束すると完成時の御本尊にとシャム国宝の1000年を経た釈尊金銅仏を下賜されたのである。
寺院建立の候補地を巡り、調整に難渋したが、名古屋官民一致の誘致運動の結果、名古屋に決定し10万坪の土地が用意されて、明治37年に完成した。当初は日暹寺(にっせんじ)と称した。暹はシャムの国名(暹羅)から採ったもので、タイと改称した際に寺名も変更された。御恩を忘れないための命名である。
毎月21日は、「弘法さんの縁日」で多くの人が訪れるし、周辺には四国八十八ヶ所のお堂が揃っている。
和尚も二回ほどお参りに行った。名古屋駅から地下鉄東山線に乗り「覚王山」駅で下車すると、参道だ。機会があれば、ぜひお参りに行って下さい。ちなみに「覚王」とは、釈迦の別名。

阪急中部 西国第2回 2番~8番


平成21年9月28~29日

名古屋からの巡拝バスに添乗して2番紀三井寺から8番長谷寺までを案内した。初日は、長谷寺、法起院、岡寺、壺阪寺、葛井寺とまわり、2日目は、施福寺、紀三井寺、粉河寺とまわるコース。先日の西国の先達研修会で、壺阪寺の常盤住職の講演を聞いたので、さっそく車中でご紹介した。なんと、山門で件のご住職にばったり出会い、皆さんに、「先ほどお話したご住職ですよ」と紹介させていただいた。なんというタイミングだ。長谷寺、岡寺、壺坂寺は、御本尊と久しくお会いできるので、案内のしがいのあるお寺である。
施福寺は、上醍醐につぐ難所といわれているが、上醍醐は、途中までタクシーでゆくオプションもあり、いまは山上の落雷でお堂が焼失し、本尊は、醍醐寺金堂に安置されているので、まったく山登りの必要がない。そうすると、全員が、登らなければならない施福寺が、西国1番の難所ということになろう。かって心筋梗塞を患ったという人を含め、全員が無事お参りできた。また、この寺は、弘法大師が剃髪したゆかりの寺としても知られている。
紀三井寺の圧巻は、昨年の5月に落慶法要が営まれた「大千手十一面観世音菩薩像」、旧知の松本明慶大仏師の作になるもので日本最大観音立像である。300円(70歳以上は200円)の拝観料を払って入堂すると、その巨大さに、皆びっくり。階段を上って展望閣に至ると、和歌の浦が一望できるし、観音様のお顔をガラス越しに拝見できる。和尚も近くでお顔を拝見したのは、初体験だった。
お客の一人に、電通で同期の兄さんがいて帰宅後、電話をしてくれたらしく、さっそく懐かしい連絡をいただいた。久しぶりに東京で11月に同期会を開催するという。和尚もかけつけることを約した。
(写真は施福寺・弘法大師御髪堂)

2009年9月27日日曜日

西国三十三所霊場会 先達研修会


平成21年9月27日

第5回先達研修会が大阪・新阪急ホテルで開催された。会場の紫の間は466名の参加者で満員の盛況。当日の資料では、現在の公認先達は3291名とのこと。
講演は、6番南法華寺(壺阪寺)の常盤勝範山主、「お里沢市」の壺坂霊験記にまつわるエピソードを交えながら、観音様の気持ちになって人に接する大事さを話された。当寺は、盲老人の養護老人ホーム「慈母園」を境内に開設するほか、いくつかの福祉施設を運営している。その経験から語られる言葉に、考えさせられる点が多かった。目の見えない人の立場、気持ちを理解して接することができるか。それが観音様の気持ちという。
白杖で、物を確認しながら歩む盲人にとって、バリアフリーの平面は、とらえどころがなく、かえって不安になる。健常の者にとって、当たり前のことが、当たり前でない世界をどう理解するかだ。
山主の子供の頃の思い出に、「入所者と草刈りをしなさい」と言われ、日よけ帽子や香取線香を用意して行くと、「坊っちゃん、私等は、昼も夜も一緒だから、涼しい夜に草刈りをしますよ」と言われたという。
壺阪寺といえばインドの石仏と言われるほどに、ご縁が深いが、先代のちょっとしたきっかけが基となり、インドの救ライ活動にのめりこんだ機縁によるものとか。いいお話を聞かせていただいた。合掌

2009年9月25日金曜日

土佐の国 一国巡り

ハロートラベル大阪主催「田尾秀寛師と巡る四国八十八ヶ所遍路の旅」

この春からスタートした和尚が先達のバス遍路、春、秋と一国づつ巡り二年で結願する行程。今秋は、土佐の国を廻るが、38番、39番は次回まわし。せいぜい20人までの一行なので、毎夜、一献傾けながらの楽しい旅となる。よろしければ、お問い合わせください。

 日程 平成21年11月16日(月)~18日(水)2泊3日
 集合 午前7:50 新大阪駅1階観光バス駐車場
 費用 59,000円(納経代は別途)
 申込・お問い合わせは
     ハロートラベル大阪 06-6306-6411

こんにゃく祭り



平成21年9月20日

和尚がお預かりしている「真言宗 奈良 唐古 常徳寺」で20日、弘法大師お逮夜法要に合わせ「こんにゃく祭り」を開催した。こんにゃくは九州・鳥栖の手作り「ごんべえこんにゃく」が「戌年同行の会」から御布施として贈られたもの。関東煮のおでんはよくあるが、和尚のこだわりはあくまで故郷「讃岐流」である。
こんにゃくのあく抜きをした後、白湯で温め、味噌をつけていただくのだが、その味噌味が問題。春の御彼岸に開催した時は、味噌味を求めて苦労した。たまたま「阿波の一国巡り」の際にいただいたお弁当に味噌こんにゃくがあり、その味が求めていた子供の頃のなつかしいものだった。弁当やさんにその味噌のレシピを尋ねると、ホテルまでミニパックに入れて届けてくださった。みなさんに味見をしてもらったところ大好評なので、それを持ち帰りミナミの「松鮓」の板さん・亀山さんに再現を依頼した。今回も亀山さんにお願いして、前回より少し甘めに作ってもらった。
当日は、朝から先達仲間の後藤氏、武田さん、源さんが大奮闘で調理してくれた。
13時より法要、説法。14時からこんにゃく祭りのスケジュールで、有縁の方が40名ほど集まった。「こんなおいしいこんにゃくは、初めていただいた」の声が多く、またたく間に20丁のこんにゃくが胃袋に消えた。20丁といっても「ごんべえこんにゃく」の大きさは普通のこんにゃくの倍以上の大きさだ。縦長に1丁を1/4に切って串に刺してあるのだが、豪の者は10本たいらげたとか。
お四国で顔みしりの方も多く、和気藹々と楽しいひと時を過ごさせていただいた。
合掌
(写真は、「ごんべえこんにゃく」と法話中の和尚)

2009年9月23日水曜日

四国霊場会 先達大会


平成21年9月18日

第29回四国八十八ヶ所霊場会 公認先達大会が高知県民文化ホールにて開催された。年に一度の全国大会で、北は青森県、南は沖縄県から1200名を超える公認先達が一堂に会した。
開会式の後、物故者の慰霊法要が札所寺院のご住職等によって営まれ、表彰式などがあって午前の部は終了。
午後の特別講演を楽しみにしていたが、講師の大塚耕平参議院議員が、副大臣に起用されたため欠席。しかし、国会で欠席もあり得ると予感した講師は、念のためのVTRを作成してくれていた。
テーマは「私にとってのお大師様とのご縁」、講師は名古屋の覚王山日泰寺の門前に事務所を構えるが、子供の頃から、弘法市などの縁日に親しんできたという。日泰寺の由来は、和尚がバス遍路で話題に取り上げるテーマなので、とても興味深く聞かせていただいた。(稿を改めて由来を書きましょう)
講師は、平成14年から「弘法さん かわら版」を作り参拝者に配り続けているという。それが、この度、
大法輪閣から出版の運びとなった由。続いて、初の試みとしてパネルディスカッションがあった。4番大日寺の真鍋俊照住職(四国学院大文学部長)をコーディネーターに霊場会坂井智宏会長、作家・家田荘子、関西先達会平岡進会長、52番太山寺吉川俊宏住職がパネラーとなって「今にいきるお大師さん」をテーマに議論された。中々参考になる話を聞くことができた。
今回は、前日よりお四国仲間の武田、源の両先達と高知入りし、大日寺、国分寺、善楽寺の3カ寺もお参りできた。

2009年9月9日水曜日

観音正寺御開帳ー西国満願の旅


平成21年9月8日

難波から西国12回満願のバスに添乗した。お客様は44名、満員の盛況だ。福山添乗員にアシスタントは、ベテラン上田氏、バスは近畿観光・斎藤ドライバー。32番観音正寺と33番岐阜の谷汲山華厳寺の2カ寺のみだが、観音正寺は、西国札所の中では屈指の難所の一つ、歩けば、急な石積階段1200段を30~40分かけて登ることになる。勿論、タクシーで近くまで登るオプションもあるので、お客さんは選択できることになっている。和尚は、一人でも歩くといえば、付き合わざるを得ないので、タクシーに乗ったのは1度きり、それは積雪後のお参りで、危険を感じ全員タクシーをお願いしたことがあるのみ。
希望を募ったところ、15名が徒歩組となった。タクシー組も、ピストン輸送となるため、本堂に着く時間はほとんど変わらない。頂上の境内に、山門はないが、大きな仁王さんが、迎えてくれる。本堂、本尊共に、平成5年の火災で焼失し、平成16年に復興されたところ。とくに本尊千手観音は、丈六の大仏で知己の松本明慶工房製作で、彼独特の優しい、ゆっくらした表情をしている。インド政府から特別許可をいただいて輸入した23トンの白檀の原木からの作品である。
お参りを終えて、参道を下るとき、本尊の合掌した御手からの結縁の紐が木々を伝い山を下るのに気がついた。どこまで繋がっているのかと、注視しながら下山すると、参道入り口にある駐車場に立てられた角塔婆まで続いていた。山を登れない人にも結縁の機会をという、御配慮だと感じた。標高433mの頂上からである、びっくりするやら、感動するやら。
満願の華厳寺は、桜並木を守るため、バスは1キロ手前までで、後は歩きだ。また、この寺だけは、3か所、お参りする。本堂、笈摺堂、満願堂の3か所だ。それはいいのだが、納め札箱が満願堂にしか置いていないという。3か所お参りさせて、3つの朱印を押すのだから、各お堂の納め札箱を置くべきだと和尚は思う。
(写真は御開帳の観音正寺本堂)

ご接待

平成21年9月7日

名古屋発の四国第1回目の遍路バスが2台、1号車には、桂川SAから中川先達が乗車し、2号車には、和尚とアシスタントの幸山君が、名塩SAから乗車した。添乗員は角嬢、1号車26名、2号車25名、バスは共に西濃華陽バス、しかもドライバー2名制。予定より30分ほどバスが遅れ、1番霊山寺に着いたのが12時半ごろ、遍路用品を揃え、お弁当をいただいて、記念写真を撮り、法話を聞いて、気がつけば2時半過ぎだった。2番、3番、5番、と廻り4番を打ち止めたのが、5時前。1番霊山寺の法話の後、ご住職が、「先達さん前に」というので、何事かと思ったら、「付法の八祖のお名前を刻んだ印版を作ったので、お遍路さんの白衣の右肩に押してあげてください」ということだった。
今回は、霊山寺の写真担当のお姉さまからは、いま旬の「生すだち」をどっさりいただくし、2番極楽寺の長寿庵では、住職夫人にばったり出会い、御挨拶すると、「すだち酎」に「鳴門金時のふかし芋」をご接待いただいた。和尚の先達仲間の武田泰全さんの推薦寺が極楽寺で、彼女の近況も尋ねられた。
名古屋からのバスでは、つい力が入り、「覚王山・日泰寺」の由来をくどくどと話してしまう癖がある。
いずれ稿を改めて、日泰寺の話を書きます。

2009年9月5日土曜日

仏の姿、菩薩の姿

平成21年9月5日

日本最大の宗教新聞「中外日報」9月1日付の紙面に畠中光享氏の文章が掲載されていた。とても解りやすいので、転載させていただく。「釈尊出家後の姿が仏、宮廷生活の姿が菩薩」ということだ。


 最初の仏像はどのような像で、どのような姿であったかを述べていきます。仏像と菩薩像はほぼ同時につくられ、最初仏像といえば釈尊像のみであり、菩薩像は釈尊入滅後56億7千万年先に仏となるとされる弥勒菩薩だけがつくられました。2世紀も半ばになりますと阿弥陀仏や過去仏であるディパンカーラブッダ(燃灯仏)がつくられ、観世音菩薩の前身の蓮華手菩薩もつくられ始めます。
 仏の形は釈尊出家後の姿で表され、菩薩の形は出家前の宮廷生活の時の姿で表されました。出家者は死体焼場に棄てられた衣類を洗い、状態の良いところを自分で縫い合わせて一枚の衣をつくり、腰布の上から身体に巻きつけて衣として身につけました。両肩を覆った着方を通肩(つうけん)と言い、右肩を出した着方を偏袒右肩(へんたんうけん)といいます。ガンダーラでは通肩の像が圧倒的に多く、マトウラでは初期の仏像は逆に偏袒右肩が多く見られます。ガンダーラ仏の衣の彫りは深く、高低があり、衣文の流れも自然な感じで水が自然に流れていくように彫られています。仏像の衣のことをわが国では糞掃衣と呼び、便所掃除の衣とされていますが、間違った訳といえます。もともと衣と袈裟は同じですが、わが国では貴族風衣裳の上に袈裟をつけています。五条や七条袈裟と言うのは五枚つなぎ、七枚つなぎといった衣の意味で、かろうじてつなぎ合わせて衣をつくったという体裁を袈裟でもって保っているのです。
 菩薩の姿は釈尊の宮廷生活の姿なのでネックレス、イヤリング、アンクレットなどの飾りをつけ、上半身は裸でドーティ(腰巻)を着け、サンダル姿で豪華に表されています。菩薩の髪は宝髻(ほうきつ)といい、頭髪を紐状のっもので結び、二段の束髪にし、装飾品を付けていることが多いです。また髪型も一定している自由な自然さがあります。顔の左右に垂れた頭髪は多くは耳の下で束ねられていますが、中には長く肩に垂れた、いわゆる垂髪(すいはつ)の形をつくっているものもあります。日本や中国の菩薩についている宝冠はガンダーラではみられません。
 仏像をつくる時の決まりを儀軌(ぎぎ)といいますが、最初から多くの儀軌があったわけではありません。ギリシャの神と違って、当時のガンダーラ地方の人々の姿によるところが多いと思われます。
 頭頂部の肉髻(にっけい)は知恵のコブといわれますが、実際には髪を上に持ち上げて頂上でで団子状に束ねたウエーブのかかった髪形であって、儀軌によって螺髪形に決められるのは、北インドではグプタ時代(320年~)に入ってからのことです。仏像の耳たぶが長いのは人々が重いイヤリングをつけていたからです。現在でも南インドの人の中には耳たぶが耳の倍の長さくらいの人を見かけます。額に白毫がつくられたのは、インドラ神(帝釈天)の額にある横長の目、シヴァ神の額の縦の目などインド的、額の神格化の要素を加えたことによります。
 仏、菩薩像には、頭光(円光背)がつくられ、尊像としてのオーラを表現していてギリシャやローマの神の像にはありません。手の指と指の間には水かきのような膜がつくられていて、それを曼網相(まんもうそう)といい、少しでも衆生をもらさずに救うための膜とされていますが、実際は彫刻が壊されにくくすることや、またつくる際に折れにくくするためにつくられたものです。











  

2009年9月4日金曜日

慈雲尊者

平成21年9月2日

さぬき市の櫻谷和香先達が、来阪されたので大阪の文化発信基地として変貌を遂げつつある中之島を御案内した。かっては大名の藏屋敷が多くあり、慶応義塾の創始者福沢諭吉もこの地の中津藩蔵屋敷で生を受けた。
また、真言行者にとって忘れえないのは、慈雲尊者の生誕地でもあることだ。リーガロイヤルホテルの東側に生誕の地の石碑がある。
慈雲尊者は、名を「飲光」(おんこう)といい、享保3年(1718)7月28日に高松藩蔵屋敷で生まれた。幼児から読書・書法を学び、13歳で父を亡くすと摂津住吉法楽寺で得度し「忍瑞慈雲」と称した。翌年、悉曇を学び、18歳で京都に上り、伊藤東涯に儒学を学ぶ。顕密を極め、諸国を遊歴し、延享元年(1744)摂津高井田長栄寺に住して正法律を唱道し、釈尊在世当時の戒律復興を目指した。
41歳、生駒山中長尾の双龍庵に隠遁、梵学の研究に専念して10年後完成したのが「梵学津梁1千巻」で、今日でも世界の驚異とされる。明和8年(1771)西京阿弥陀寺に移り、十善戒を説き勧め「十善法語12巻」にまとめた。安永2年(1773)河内高貴寺を付属され、ここを正法律の根本道場とした。また晩年には、理趣経の還梵を試み、雲伝神道を創道した。文化元年(1804)12月23日阿弥陀寺で遷化、高貴寺奥の院に葬る。門下数百人を数え、各宗に通じると共に儒教・神道、西欧の事情にも明るく、釈尊の根本仏教への復帰を主張した一生だった。正法律運動もその一端である。江戸時代の革命的名僧である。

2009年9月1日火曜日

京都巡拝


平成21年8月31日

西国霊場18番頂法寺、19番行願寺、そして東寺を巡拝した。頂法寺は、六角のお堂が本堂であるところから「六角堂」の名で知られている。聖徳太子が開基(587)したこの地は、太子が水浴をされた池のあったところで、遣隋使小野妹子が帰朝後、この池の畔に坊を建て、本尊を守護し、宝前に花を供え、代々それが受け継がれ、華道池坊の基礎となったという。
(本尊:如意輪観音)
19番行願寺は、別名「革堂」。京都市役所の北にある。開基は行円上人(1004)、若かりし時は狩猟を良くし、ある時一頭の牝鹿を射止めた。この鹿は、身ごもっていて産み月近くになっていた。矢傷と陣痛の苦しみの中で、出産し、小鹿の全身を舐め、悲しい鳴き声を発して息絶えた。これを見た行円は、心から母鹿にわびる思いで出家し、常に母鹿の皮を身に着けていたという。そこから革聖、革上人といわれ、革堂の名もそれに由来する。天台宗に属し、尼さんがご住職。(本尊:千手観音)
お昼前、東寺の土口哲光強化部長を訪ねた。和尚の兄弟子であり、師のお陰で、砂原秀遍長者の弟子となり仏門に入らせていただいた。いつも食堂で、おうどんをいただくのだが、今日は修行僧が袈裟を付け食事(じきじ)作法中であった。和尚も、高野山大学道場でのことを思い出した。兄弟子から、法要の次第などのご教示を受け、いろいろと御指導いただいた。にわか坊主の和尚にとって、なくてはならない、ありがたい存在である。
納経所で、御朱印をいただいたが、東寺は四国八十八ヶ所霊場の番外札所であり、古来、お四国に参る前に東寺で道中安全のお札をいただき、四国へ渡ったもの。そして、お礼参りに高野山奥の院。つまり「88+2」で90ヶ寺を廻るべきもの。和尚もバス遍路の先達の際はその話をしているので、和尚から聞いたと言って、納経所に来られる方も少なくないとか。ありがたいことです。合掌(写真は、東寺 五重塔)