2009年9月4日金曜日

慈雲尊者

平成21年9月2日

さぬき市の櫻谷和香先達が、来阪されたので大阪の文化発信基地として変貌を遂げつつある中之島を御案内した。かっては大名の藏屋敷が多くあり、慶応義塾の創始者福沢諭吉もこの地の中津藩蔵屋敷で生を受けた。
また、真言行者にとって忘れえないのは、慈雲尊者の生誕地でもあることだ。リーガロイヤルホテルの東側に生誕の地の石碑がある。
慈雲尊者は、名を「飲光」(おんこう)といい、享保3年(1718)7月28日に高松藩蔵屋敷で生まれた。幼児から読書・書法を学び、13歳で父を亡くすと摂津住吉法楽寺で得度し「忍瑞慈雲」と称した。翌年、悉曇を学び、18歳で京都に上り、伊藤東涯に儒学を学ぶ。顕密を極め、諸国を遊歴し、延享元年(1744)摂津高井田長栄寺に住して正法律を唱道し、釈尊在世当時の戒律復興を目指した。
41歳、生駒山中長尾の双龍庵に隠遁、梵学の研究に専念して10年後完成したのが「梵学津梁1千巻」で、今日でも世界の驚異とされる。明和8年(1771)西京阿弥陀寺に移り、十善戒を説き勧め「十善法語12巻」にまとめた。安永2年(1773)河内高貴寺を付属され、ここを正法律の根本道場とした。また晩年には、理趣経の還梵を試み、雲伝神道を創道した。文化元年(1804)12月23日阿弥陀寺で遷化、高貴寺奥の院に葬る。門下数百人を数え、各宗に通じると共に儒教・神道、西欧の事情にも明るく、釈尊の根本仏教への復帰を主張した一生だった。正法律運動もその一端である。江戸時代の革命的名僧である。

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