2015年10月29日木曜日

高野山 秋の特別ご開帳

平成27年10月28日
中門の多聞天

蛇腹道の紅葉
先達仲間3人で、高野山に登った。主目的は、無量光院の両界曼荼羅の拝観と特別ご開帳だ(11月1日まで)。新本堂に、両界曼荼羅が納められたというので、無量光院へ。尼僧さんの案内で、ゆっくりと拝ませていただいた。ついで、近畿三十六不動の一つである南院を訪れ、お勤めさせていただく。特別ご開帳のせいか、お山の駐車場は溢れんばかりなので、車は南院さんに置かせていただいて、取敢えず腹ごしらえと、中本名玉堂へ。これまた団体予約で一杯だ。顔なじみの店員さんが、少し待ってくれれば、用意しますと言ってくれたので、そうさせて貰った。金剛峯寺の本尊弘法大師に会いに行く。二人が高野山参事会のメンバーなので、同伴の和尚も入場無料だ。売店で、「小説弘法大師物語」をお薦めする。昭和9年1月5日よりの朝日新聞連載小説で直木三十五が執筆するが、2月24日に逝去、38回から後を論説委員であった釋瓢齊が126回まで書き続けたというもの。さし絵が高野山金堂の壁画を描いた木村武山だ。和尚の知るところ、弘法大師の本格小説では唯一のものと思うが、なかなか書店で手に入らない。しかし、金剛峯寺の売店では売っているのだ。(発行:スタジオ類)
紅葉の蛇腹道を歩き、金堂へ。(拝観無料)本尊薬師如来の前に座り、しばらく時を過ごした。もう生きている間にはお会いできないと思うからだ。中門の四天王さまをお一人づつカメラに納める。
最後は、霊宝館。ここも参事会員は無料で、和尚も恩恵に預かる。仏様たちと久しぶりのご対面だった。喫茶「西利」で、美味しいコーヒーを堪能して下山。途中の「こんにゃくの里」により、山芋と高野槙を購入。先達で登るのと違って、のんびりとした1日でした。合掌

 高野山にて  紅葉の トンネルくぐる 蛇腹道

2015年10月25日日曜日

読売旅行 西国11回 32~33番 榛原発

平成27年10月24日

観音正寺 本堂
久しぶりの読売旅行で、集合場所は最寄りの五位堂駅、朝もゆっくりで大喜びしていた。しかし前日の電話で愕然。3台出る内の3号車の予定だったが、2号車に変更してくれという。2号車は、榛原から名張、桔梗が丘を経て上野ドライブインから32番に向かうというコース。榛原6時30分集合には、和尚も始発電車に乗る必要がある。ということは、当初添乗予定の先達さんは、とても間に合わないということで、変更という訳だ。5時起床の予定が、緊張のせいか4時に目覚めてしまった。
榛原10名、名張7名、桔梗が丘8名、上野ドライイン18名と乗車して総勢43名と満員状態だ。他の2台は、それぞれ違うコースだが、名神高速を利用する。その点、2号車は名阪国道から近江路に向かうので、一番に到着できる。32番観音正寺は、麓の五個荘からタクシーで登る。先着したので、全員が一挙にタクシーで移動できた。当初は、2回に分けてお勤めかと話をしていたが、お陰で、お勤めも全員ですることができた。また、松本明慶作の白檀の大千手観音様を心ゆくまで拝んでいただけた。順調な滑り出しで、昼食会場のレストランハイウエー(彦根IC近く)に11時過ぎに到着し、12時過ぎには、33番谷汲山華厳寺に向けて出発できた。1時間少々で谷汲山の駐車場にたどり着き、まずはトイレに案内する。参道は、桜と楓の並木となっており、保護のためバスは通行できない。約800mを歩き山門をくぐる。108本の石灯籠を数えると本堂だ。おいずる堂から満願堂と3ヶ所でお勤め。満願の証を求める方も多い。50分後の15時集合の声をかけて自由参拝とする。
帰路は、東名阪から西名阪のルート。途中休憩し、上野ドライブインに18時前着。和尚は、桔梗が丘駅で失礼して、帰宅。満願おめでとうございます。善光寺のお礼参りには、寒さにお気を付け下さい。合掌
 谷汲山にて   柿並ぶ 満願の里 谷汲山
 

2015年10月23日金曜日

西国2回 2~4番 生駒発

平成27年10月21日

粉河寺中門の多聞天
生駒から43名のお客様と最大の難所・4番施福寺へ向かう。歩けば、長命寺や観音正寺の方が難所なのだが、タクシーのオプションがあるので、全員が立ち向かうという点でここが1番となる訳だ。
枚方方面よりもう1台とのことだが、我々が先行することになる。施福寺は本堂の改修を終えて、本堂拝観が有料となったので、お客様に意向を聞くと本堂でのお参りを希望する方が6割ほど。従って、まずは本堂下でお勤めの後、内拝希望者を和尚が案内することとした。(拝観料500円)
麓の槙尾山観光センターで、お杖を借りて登る。山門までたどり着いて一息入れるが、ここから30分の張り紙がある。このところ25度程度の気温になるので、和尚はTシャツの軽装で、黒衣や袈裟などをリュックに詰めて登る。これが大正解、本堂にたどり着き、汗を拭い着替えをして全員そろうのを待ち受ける。本堂は改修の結果、すべての仏様がそのままの姿で拝観できるようになり、とても有り難い。お客様も大満足だ。山を降りると、観光センターの柿の葉寿司と草餅が大好評。最後に降りてきた方は、売り切れてしまい残念がっていた。(後で聞くと、枚方組のお客様が写真撮影中に1m程の
沢に落ちて、救急車を呼ぶ騒ぎになったらしい)
和歌山マリーナシティの黒潮市場で昼食、お客様にとっては、初めての「食事作法」となった。2番紀三井寺の結縁坂の石段を上がり本堂に行けば、JTB名古屋のご一行がお勤めを始めるところ、心経のお唱えが終わるのを待って、我々もお勤めを開始する。そのあと我々は、新仏殿の大観音様に会いに行く。松本明慶作の約12mの千手十一面観音立像だ。100円払って、「展望回廊」に上がる。回廊は、観音様のお顔の高さで、三つの円窓から間近に拝むことができるのだ。勿論、万葉集に歌われた和歌の浦も眼の下だ。堪能して、3番粉河寺へ。奥行きの深い広い境内を説明しながら案内する。見どころの多い寺なのだ。ご本尊は絶対秘仏だが、脇の二十五部衆や野荒らしの虎(左甚五郎作)などを拝観できる。10名ほどの内拝希望者(400円)に対し和尚が案内役を勤める。16時30分打ち止め。阪和道堺料金所あたりに来ると、俄かに渋滞。何事かと思っていると、ETCの入り口4ヶ所が全て赤信号で一般入り口のみしか通行できない状態なのだ。係員が出て誘導しながらさかんに謝っている。つまり信号機の故障なのだ。こんなこともあるものだとびっくり。
「今夜は、しっかり足を揉みほぐして下さい」とお伝えしてお別れ。結願までに何度かご一緒することになるでしょう。その時はよろしく。合掌

 施福寺にて  秋晴れに 汗心地良き 槙尾山

四国4回 ミキ大阪会 梅田発

平成27年10月19~20日

平等寺の山門
梅田から28名のお客様と阿波路へ向け出発。初めての1泊2日のバス遍路。お客様は皆さん顔なじみの方々なので、集合地点から和やかな雰囲気だ。8時の出発だが、湾岸線の通行止めの影響で渋滞、淡路SAにたどり着いたのが9時20分、徳島とくとくターミナルで休憩し20番鶴林寺に12時に着いた。道中着の背中に、沢山のご朱印を押すのは感心しないが、鶴林寺の鶴と延光寺の亀のご朱印を押してもらうのは、和尚もお薦めだ。21番太龍寺へ向かう。ともかく初日に20番と21番の「遍路ころがし」を済ませてしまうのが和尚の流儀、14時発のロープウエイで上り、13時発で下ると伝える。上天気で、ゴンドラから鶴林寺の三重塔が、良く見える。太龍寺は、西の高野といわれるだけあって、大師堂の雰囲気は、高野山奥の院と同じ配置となっている。本坊廊下の天井に描かれた「大龍図」を鑑賞して下山、22番平等寺に走る。初日に3ヶ寺廻れれば、十分だ。平等寺は、本堂が改修中で、ご本尊薬師如来は、護摩堂に仮安置中。しかも、ご開扉されていて、和尚も初めて拝観させて頂く。大師堂も、最近はご開扉されているので、お客様は、超ラッキーなのだ。お寺の廻りの畑では、コスモスが咲き乱れ、撮影会の様相だ。打ち止めは、16時20分。
お宿の「昴宿よしの」に向かう車中で、「阿波踊り会館」の見学をお薦めする。ネットで確認すると、今夜は「まんじ連」の出演、この時間なら、食事を済ませ20時からの開演に十分時間がある。しかも、入場料も御宿で買えば、800円が600円になるという。経験者を除く24名が参加、添乗員もドライバーさんも初めてということで参加。聞けば、皆さん堪能し優秀賞を頂いた方も。
20日は、8時出発、17番井戸寺から。馴染みの堂守さんに、ご挨拶すると「今、開けたばかりよ」という。「本来は9時にお堂を開けるルール、出来るだけ30分前に開けるのよ」と久しぶりの笑顔。お客様が沢山買い物されたせいか、和尚にも線香と蝋燭のご接待。「面影の井戸」で霊水を頂く。16番観音寺の名物は、お大師様の梵字の光明真言の印版だ。道中着の両襟に摺って貰うのだが、込み合っていたり若衆がいないと駄目、声をかけた手前何度も電話するが繋がらない。あきらめて取敢えず添乗員に預けて貰い、納経所へ確認に。対応できると聞いてホッと一安心。19番立江寺では、納経所にお願いして、本堂でお参りさせて頂く。お客様は、堂々たるお地蔵さまに、感嘆の声。しかも、「黒髪堂」のお話をして、見学してもらうとさらにびっくりされたようだ。18番恩山寺の麓は、「義経上陸の地」という石碑が立つ。屋島の戦いの折に、ここから上陸して屋島に向かったというのだ。近くの神社の丘に義経の騎馬像が見え、国道の橋の名前も「義経橋」「源氏橋」とある。ご母堂玉依御前のゆかりの寺でもあり、御前を祀るお堂も大師堂に隣接して建つ。和尚は、釈迦十大弟子を祀るお堂で、解説だ。お弁当を摂りながら、23番薬王寺へ。お許しを得て、本堂に上がりお勤め。更に渝祇堂にも上がり、五智如来の話をする。山から眺める日和佐の景色も素晴らしい。14時過ぎ打ち止め。
平等寺近くのコスモス畑
休止中だった薬師会館で確認すると、4月1日から再オープンで、宿坊も再開、2階の食堂も団体予約は受け付けるとのことだった。お客様の要望を受けて、日和佐の道の駅で休憩し帰路へ。楽しい旅でした。合掌

 太龍寺にて  天高く 鶴林寺見ゆ ロープウエイ

 平等寺にて  秋桜や お薬師開帳 平等寺



2015年10月18日日曜日

信貴山 二十八使者、守護善神練り行列

平成27年10月18日

二十八使者とお付きの行列
日本で唯一信貴山でしか見られない法要「二十八使者、守護善神練り行列」が、秋晴れの中で行われた。これは、毘沙門天王のお使いである二十八人の使者、守護善神に扮し信者さんたちが仮面をかぶり衣装をつけて赤門から本堂まで練り歩くもの。朝護孫子寺からは、3本山の看主と役僧9名が行列に加わり、本堂で法要を行う。和尚も、千手院の役僧の一人として昨年に引き続いて参加した。千手院では、14時のお練りに先立って12時半より柴燈護摩を施行。行列は、先導に導かれた二十八使者、守護善神に続いて、僧が一列に。履物は、木靴なのでとても歩きづらい。本堂での法要次第は、散華、前讃(四智梵語)、般若心経、後讃(不動讃)、諸真言、至心廻向。何とか今年も無事お勤めを終えました。合掌


三本山の僧行列

2015年10月15日木曜日

四国10回 60~65番 生駒発

平成27年10月13~14日 
横峰寺の芒
生駒から44名のお客様と伊予路に向かう。約3分の2近くが和尚と同行の経験のある方、10回目とあって皆さん顔なじみ。集合の時点から和やかな雰囲気だ。阪神高速湾岸線の集中工事で通行できないため、神戸線が渋滞。ドライバーさんの判断で中国道経由で淡路島へ。次のポイントは、吉野川HWOでの昼食。和尚の選んだメニューは、チラシずし、うどん、おでんという讃岐風のセット。讃岐のうどん屋さんを覗く時は、この3点セットの用意のある店を選べば、間違いがないのだ。食後30分も走れば65番三角寺、今日は三角寺と60番横峰寺を済ませてしまう計画だ。2ヶ寺共、タクシーやマイクロに乗り換えて行く山の寺。三角寺は、弘法大師が修法の際に築いた三角の護摩壇に由来する。今、その遺跡は池となり弁財天が祀られている。境内に十月桜が咲き、女性軍がワイワイと愛でている。一茶の「これでこそ登りかひあり山桜」の句でも名高い。横峰寺へは、2台のマイクロバスに分乗して登る。駐車場が、境内の上にあるため、往きは下り帰りは登りとなる。他に参拝客の姿もないので、本堂の外陣に上がり込み勤行。45人の大合唱なので、まるで天井からお経が降ってくる感じで素晴らしい。参道を登りきると、目の前に日差しを浴びて光り輝く芒が現れた。即パチリと一枚。打ち止めは17時、お宿の道後温泉「ホテル ルナパーク」へ。 四国4回のバスと同宿となり、先輩先達と夕食もそこそこに夜の街へ。連れられて入ったお店が、近代的居酒屋というべきか、注文はタッチパネル方式。お店の方は、注文されたものを運ぶだけで済むので人件費削減になるのかも。お客にとっては、明朗会計でゆっくりと選ぶこともできる。調子に乗って、少し飲みすぎた。
 14日 まずは「ハタダのお菓子舘」でお買いもの。和尚も詩吟教室の生徒さんのために新商品「鳴門金時ポテト」を仕入れる。鳴門金時100%使用が謳い文句で、確かに旨い。お参りする4ヶ寺は、国道11号線に沿っている。バスの運行が楽なように、62番宝寿寺から。境内に立つ「十一面観音像」のお顔が妙に愛らしい。「一切女人 安産祈願」の観音様なので、女性軍に人気。63番吉祥寺のご本尊は信貴山と同じ「毘沙門天」、山門近くの福聚閣には、七福神の残り六体が祀られている。皆で順にお参り。駐車場に戻ると、祭衣装の若者が集まってくる。どうもこの地区の秋祭りのようだ。64番前神寺は石鎚派の総本山、境内も奥行きが深い。本堂に向かう途中に、お大師様の像があるが、表情が宝寿寺の観音様に良く似ていて、和尚は同じ作者ではないかと思っている。また、本堂への石段の横に、お不動さんが1円アルミ貨を身体に一杯貼り付けて立っている。「上手く貼りつくといいことがあるそうですよ」と説明すると挑戦するお客様も多かったが、どなたも成功しなかった。国道を61番香園寺に向けて走る車窓から、山車数台とすれ違った。皆さん、大喜びだ。香園寺では、大聖堂に上がりお勤め。大日如来、真言八祖など説明させていただき打ち止め。(12時10分)
リンリンパーク-の餌を求める錦鯉
 昼食会場は「リンリンパーク-」錦鯉の池が凄い。お客様は鶏鍋セットだが、我々乗務員はメニューから選べるので、和尚は「鍋焼きうどん」を注文。帰路は、「いろは歌」の解説をし、皆で練習タイム。すると、お客様がやってきて、早く夕べのお勤めをして欲しいという。男性軍が、次の休憩ポイント、吉野川HWOで精進落しに一杯やりたいということだった。神戸線の渋滞をさけて、中国道経由で生駒着18時40分。楽しいお参りでした。合掌
  三角寺にて  登り来て 十月桜 三角寺  
   吉祥寺にて  蟷螂に 道譲りたる 遍路かな  
   前神寺にて  笑み浮かべ 迎ゆる大師 秋遍路  
   沿道にて   山車(だんじり)を 曳く乙女らや 秋祭り 
  淡路島にて  赤々と 輝き沈む 秋夕日

2015年10月11日日曜日

神護寺 多宝塔 特別ご開帳

 平成27年10月11日
神護寺の山門
 神護寺の多宝塔の本尊五大虚空蔵菩薩(国宝)の秋のご開帳に向け、なんばを8時に集合した。昨年も、トライしたのだが台風の影響で中止となり、門前で引き返えしたのだった。信貴山千手院大阪分院のメンバー4人で、まずは金堂にて、ご本尊薬師如来(国宝)を前に読経、薬師如来に脇侍の日光・月光菩薩、眷属の十二神将、更に四天王が居並ぶ。読経の後は、お膝元近くで拝観させて頂いた。 ご開帳の五大虚空蔵菩薩は、向かって右より宝光虚空蔵菩薩、蓮華虚空蔵菩薩、法界虚空蔵菩薩、羯摩虚空蔵菩薩、金剛虚空蔵菩薩と一列に並ぶ。本来は、法界虚空蔵菩薩を中心に、四方に配置されるものと云うが、多宝塔の内部空間が狭いが故の配置とか。微かに、かっての彩色が残っている。役僧の説明が一段落したところで、ここでも読経させていただいた。拝観料は、通常の600円に多宝塔拝観500円プラス。帰唐された弘法大師が、14年間住持された「遺跡本山」である。和尚もようやく念願かなっての参拝となった。下山後は、麩屋町の「晦庵河道屋」でおそばを頂き、「錦市場」へ。日曜日とあってか、電車のラシュ並みの込み具合だ。和尚は、「麩饅頭」「出し巻き玉子」「大根の糠漬け」といつものお買いものをして帰路についた。天気予報に反して、雨も降らず、良いお参りとなった。合掌 

2015年10月9日金曜日

醍醐寺三宝院特別拝観と霊宝館

平成27年10月7日

三宝院・国宝唐門
三宝院門跡筆「花尽くし」
読売新聞わいず倶楽部の企画に応募したところ5倍の抽選に見事当選、参加費は6600円。醍醐寺へは西国巡拝でお客様とお参りするのだが、三宝院や霊宝館は素通りなので、この機会を利用させていただいた訳だ。京都地下鉄「醍醐駅」に10時30集合。100名が4班編成に。まずは、三宝院の修証館で法話と「高王十句観音経」の写経、本堂に写経奉納して昼食。
会場は、雨月茶屋恩賜館。箸袋には「食事五観文」が書かれている。『一つには、功の多少を計り、彼の来処を量る。二つには、己が徳行の全欠をはかって供に応ず。三つには、心を防ぎ、過貧等を離るるを宗とす。四つには、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり。五つには、道行を成せんが為に、将にこの食をうくべし。』また、料理の敷き紙は、三宝院門跡の「花」尽しの墨書だ。午後からは、班ごとに伽藍拝観。西国のご朱印を求める方が二人いらっしゃったので、3人で別行動させてもらう。14時からがいよいよ三宝院特別拝観。若い僧侶の案内で、本堂、純浄館、奥宸殿など拝観。秀吉作というお庭も解説付きで拝見すると一段と興味深い。霊宝館では、秋季特別展として「宗達とその時代展」を開催中。宗達の屏風絵など3点など、国宝、重文7点が特別展示だ。びっくりしたのは、上醍醐の五大力やご本尊などが展示されている。さらに隣接の仏像館もゆっくり拝観できた。平成20年の落雷以降、上醍醐の仏様のほとんどが下醍醐に避難されているようだ。16時の解散まで、心行くまで堪能させて頂いた。合掌

2015年10月5日月曜日

信貴山 千手院 第21回 やすらぎ会

平成27年9月26日

長谷寺加藤精一化主
信貴山千手院恒例のやすらぎ会が開催された。講演は長谷寺化主加藤精一猊下、密教学者として多くの著作を発表されている。今年79歳になられるが、いつ拝聴しても、洒脱な語り口で、聴衆を笑いに包みこむ。日本仏教の恩人と聖徳太子を語り、仏教関連の年号にまつわるお話は興味深かった。聖徳太子の誕生は574年、その200年後の774年に弘法大師がご誕生。ご誕生の20年後が平安遷都(794年)。また仏教伝来は、聖徳太子誕生の約40年前で538年(ご参拝と覚える)。弘法大師が大師号を賜ったのが、没後(835年)87年の921年と解りやすく説明。
日本人の信仰心は「神仏を崇拝し、先祖を敬う」ところにあると話され、四苦(生老病死)の苦とは、サンスクリット語で「思う通りにならないもの」の意と説明され、納得。
加藤猊下は、弘法大師の著作の現代語訳を進められていて既に8冊(角川文庫)とか。以前の講演で、海外に弘法大師の思想を広めるには、良い翻訳が必要。その為には、弘法大師の難解な文章を上手に現代語訳しなければ翻訳が旨く行かないと述べられていた。