2009年7月28日火曜日

自殺者増加に想う

平成21年7月28日



警察庁の発表によれば、今年上半期(1~6月)の自殺者数は1万7千76人で、過去最悪の8年前に迫るペースだという。男性の自殺者が増え、県別では東京都、大阪府、埼玉県の順。

自殺は、「自己に対する殺生」である。仏教徒の生きる規範として「十善戒」があるが、その最初に上げられているのが「不殺生」である。生きとし生けるものに皆、仏性があり、「不殺生」は全ての生きとし生けるものに対しての戒である。いわんや人間をや。自殺者の論理では、殺人は犯していないということであろうが、とんでもない。自分に対する殺人である。

弘法大師は、「如實知自心」、自分の中の仏を知れと説かれ、それが即身成仏の道と導かれた。自分の生命は、自分のものではない。仏から生かされている生命なのだ。自分の思いや都合で、勝手に絶つことは、断じて許されない。合掌

2009年7月25日土曜日

寿稜墓の開眼

平成21年7月25日

大和郡山市小泉の共同墓地で、平野家の墓碑の開眼法要をおこなった。今納めるお骨はないということなので、まさしく寿稜墓ということになる。生前葬と同じで、おめでたいことだ。法要中に強い雨が降ったり、止んだりしたが、元ラガーの和尚は、雨には強い。ラグビーは、全天候スポーツだから、雨でも当たり前に試合をしていたからだ。
今は、寿稜墓などと称したりしているが、かっては逆修塔などとも言われていた。逆修塔といえば、35番清瀧寺に高岳親王(真如)の逆修塔がある。
平城天皇の第三皇子高岳親王は、嵯峨天皇の皇太子となったが「薬子の乱」に連座したとして、その座を奪われ、出家して空海の弟子となり真如と名のった。貞観3年(861)入唐の前年に当寺を訪れ逆修塔を建てた。すでに高齢で、死を覚悟しての入唐で「私が印度で果てても、魂は、この五輪の塔の下に帰って永く寺を守り、多くの人を救う」という意の言葉を刻んで旅立った。唐から印度を目指す途中、ラオスで虎に襲われて果てたという。空海十大弟子の一人。

2009年7月24日金曜日

カメラ一筋40数年、盟友片山信男氏が逝く

平成21年7月23日

和尚の10数年来の友人である(株)アートスタジオ片山信男氏が急逝した。氏とは、飲み仲間、ゴルフ仲間であり、和尚が電通で事務局を担当していたRUDEC研究会という異業種交流の集まりのメンバーでもあった。公私に渡る盟友である。和尚が、東寺真言宗大僧都に補任された折、氏のスタジオで僧衣姿の写真を数10点撮影してもらった。「久しぶりのシャッターだよ。」との声に「社員に頼めば、お金がいるから、いいの。」と答えながらの一時だった。もしかすると、彼の最後の作品かも知れない。

6月25日、体調の不調を感じ関西電力病院で診察を受けたところ、直ちに入院、一ヶ月もたたない7月21日に寂入した。まさに弘法の日だ。病名は、間質性肺炎で、あの「美空ひばり」と同じ病名だ。肺壁が次第に固まって機能しなくなり、呼吸困難になる難病だという。原因も治療法もさだかでないとか。

22日が通夜、23日が彼が社長の3社と片山家の合同葬、そしてお骨上げの後の初七日の法要と、不肖和尚が導師を努めた。葬儀委員長は親友のアシダ印刷社蘆田定男社長。出棺前の最後のお別れに際し、和尚は、お四国88ヶ寺のお御影を全身に敷詰め、その上からお花で埋めていただいた。また、病床で、和尚の「よう、おまいり」が読みたいと所望されたが見つからず、愛車の中から見つけたと拙書がお館の中に入れられた。

片山氏は、昭和17年生れ、大阪写真専門学校で学んで以来40数年、写真一筋にひたむきに生きてきた。独立して会社を起こし、写真家として経営者として非凡な実力を発揮し、関西の広告業界で、その名を馳せた。奥様のお話では、次なる事業展開の構想を暖めていたという。齢、古希に満たず、享年68歳。嗚呼何ぞ生死無常の迅速なるかな。

法名「高徳院真弘秀信居士」、和尚は万感の思いを込めて付けさせていただいた。合掌

2009年7月20日月曜日

お四国の民謡 3 足摺音頭

足摺音頭

君と行くなら足摺岬
しぶき千丈の虹がたつ ソレ
ホンニソレソレ虹がたつ

君と行くなら足摺岬
赤い椿が燃えて咲く ソレ
ホンニソレソレ燃えて咲く

君と行くなら足摺岬
冬もビローの若みどり ソレ
ホンニソレソレ若みどり

阪急 四国1回 1番霊山寺~6番安楽寺


平成21年7月12日

夏スタートのお遍路ツアーが始まった。年4回スタートする内の3回目となる。連休の中の日曜日とあって、相当な渋滞を予想したが、案の上、淡路SAまでいつもより1時間近くかかってしまった。
難波を8時過ぎに出発、添乗員は黒木嬢、中尾君、バスは帝産交通(永原ドライバー、小南ガイド)、お客は41名。阪急だけで各地から11台のバスが出ていた。
1番霊山寺では、大師堂にて住職の法話、授戒があり、その後記念写真。和尚は、1番と結願の88番の記念写真だけは、買うように勧めている。ビフォア・アフターではないが1年かけて結願した方の顔は、スタートの顔と明らかに変わっているからだ。それを自分で確かめてもらうために勧めている訳。
1時近くになったので、6番まで飛び、その間にお弁当を食べてもらうことにし、以後は逆打ちに。6番安楽寺の大師堂では、神戸方面からのバスの皆さんと、合同でおまいり。この寺は、知人の大仏師松本明慶の作品が35体安置されている。若い頃からの作品もあり、住職にかって伺ったときには、「うちだけで明慶の美術館が出来る」と言っていた。5番地蔵寺では、希望者を引率して奥の院「五百羅漢堂」を参拝。4番大日寺では、大日如来のお姿の解説、江戸時代に奉納された西国霊場の観音像を拝み、3番金泉寺へ。
「黄金井」に顔を写し長命を確認、閻魔さんに胡麻をすって、弁慶の力石と見所多い寺。改装なった大師堂では外陣でおまいりさせていただいた。
2番極楽寺で、皆で「抱き地蔵」を代わる代わる抱きしめ祈願。大師お手植えの「長命杉」の霊気をいただいて帰路につく。おまいりを終えると丁度17時。
帰りの高速道路も渋滞で、「終電に間に合わせてね」の声もかかる中、湾岸線利用で、21時半頃に到着できた。かって、和尚のバスに乗ったというお客さんが2巡目に挑戦と声をかけてくれた。「1巡目は、夢中で何が何だか分らなかったので、今度は落ち着いてまわります」との弁。和尚の話を聞いて「東寺も行きました」とのこと。有難し。(写真は、大日寺の蓮華) 合掌

2009年7月15日水曜日

阪急  西国 10回 28番成相寺~29番松尾寺



平成21年7月15日

西宮北口から日本海沿いの2ヶ寺をおまいり。和尚の乗るバスは、この地出発の方のみ18名で、添乗員は、ホッコリタイプの外山智子嬢、バスは千里山の中型車(二野宮ドライバー)。最初の休憩地・西紀SAで、声を掛けてくれたご婦人がいた。和尚の自己紹介で電通に勤務していたと聞いたが、私の主人も電通社員でしたという。聞けば、大先輩の大杉さんのご夫人だった。大杉先輩は、和尚が入社した頃は、そごう百貨店担当の部長で、後に高松支局長を努められた。新聞担当だった和尚にとっては雲の上のお方だった。12,3年前に70歳を超えたところで逝かれたという。大杉夫人も、高松赴任中にお四国は結願し、今、西国を巡っているというではないか。なんという奇遇、先般高松でお世話になった筏先輩が、次長でコンビを組んでいたのだ。
ところで、成相寺は、日本三大景色のひとつ天の橋立を望む成相山にある。昼食は、橋立を望む岸辺のレストランでゆっくりとくつろいでいただいた。松尾寺は、77年振りの御開帳の真っ最中、次は33年後という。
バス2台分60名で読経し、お膝元近くで、拝観させていただいた。西国札所唯一の馬頭観世音菩薩、金箔が残る憤怒相のお顔は、予想に反して、優しく、まるで「しょうがない奴だ」と半分苦笑いしながら叱っているように思えた。新たなご縁をいただいた一日だった。合掌

2009年7月13日月曜日

遍路閑話  無名のスパースター 日高正人


平成21年7月12日

無名のスーパースターと名乗る日高正人さんの歌手生活40周年記念ディナーショーにいって来た。
彼との出会いは、奈良西大寺のスピリチュアル・コンサルタント松鳥榮子師の紹介によるもの。
丁度、団塊の世代の応援歌「やじろべえ」をリリースしたばかりの頃だった。電通マンと聞いてこの曲の感想を求められ、彼の車の中で聞いた。一度で気に入り、フアンになった。和尚は、詩吟の講師をやるくらいなので、カラオケも嫌いではない。最近は、マイクを持つとまずは「やじろべえ」からだ。
会場の尼崎ホテルホップインにファンが約150名、美味しい料理と薩摩焼酎をいただき、彼の熱唱に酔った。尼崎には、鹿児島出身の方が多く住むとかで、彼も「第2の故郷」と語っていた。従って、会場の雰囲気は暖かく、まるでファミリーコンサートのノリだった。彼のキャッチフレーズは「無限のありがとう」。
親友の南こうせつさんが、メッセージを寄せている。
「人生は山あり谷あり、人それぞれ色んな思い出を背中にしょって歩いてゆきます。僕等歌い手は、苦しい時もたった一人で、もがきながらマイクに向かって声を出します。時にはボロボロになって、お客さんは離れていき、くじけそうになります。それでも歌うことが好きで、そしてずっと歌うことが出来る人は奇跡に近いです。つまり今も現役でいられるということは、それだけですごいことだと思います。これからもずっと歌って下さい。なぜなら日高さんの歌で勇気をもらっている人が全国に沢山いるからです。日高正人は幸せな男です。」本当に幸せな男と和尚も思います。今日までのベストアルバムを聞くと、素晴らしい楽曲に恵まれている。デビュー当時の歌声とは、別人だがそれはそれで、人生の味が染み込んできたからでしょう。ほのぼのと心温まるディナーショーだった。合掌
日高正人の略歴
昭和45年に歌手デビュー。昭和47年、日本テレビ「全国歌謡選手権」で10週勝ち抜き脚光をあびる。
昭和58年日本武道館ワンマンコンサートで1万2千人を動員し「無名のスパースター」と称される。
昭和59年日本演歌大賞特別賞受賞。平成4年薩摩大使に委嘱され、歌を通じて故郷鹿児島を全国に紹介。
最近では、映画やドラマに出演するなど、存在感あふれる演技で好評を得ている。

2009年7月11日土曜日

いのちの教育ー山形県高畠町立二井宿小学校

6月3日の朝、車の中でNHKラジオ「ラジオビタミン」を聞いていると、山形県高畠町立二井宿小学校の井沢校長がゲスト出演され、インタビューに答えていた。それを聞いているうちに、胸が熱くなり涙が込み上げてきた。
この小学校では、全校で農作業に取り組み、給食の自給率50%、白菜などにいたっては300%という。
一学年2品種、大根、白菜、ねぎ、人参、ジャガイモ、サツマイモなど6年間で12品種手がけることになる。それ以外に、高学年は水稲、もち米も育てている。
無農薬栽培のため、雑草を抜き、害虫を除去する日々の農作業の中でいのちの尊さを自然に学び、人と人との連帯、ご縁のありがたさを学ぶ。
ねぎの嫌いな子供が、低学年生が育てたものを残すわけにはいかないと、いつの間にか苦手を克服する。
田植えの前の泥田で、泥んこになって遊び、田んぼの中の小生物のいのちを知る。
沢山収穫できた野菜を、売りに出す。いくらで売ろうか議論する。スパーより高く?安く?同じに?結論は安くである。理由は、日頃、お世話になっている地元の方々に、せめてもの恩返しだという。地元の皆さんも、子供たちの育てた野菜を、競って買い求める。「がんばれ子供達!」の思いだ。
6年間の実践の中で、得るものの多さ、尊さに全国から視察が押し寄せる。
まもなく定年という井沢校長は、定年後は全国に指導に行かれるのかとの問いに「一百姓に戻って一から出直しです」と。
一草一木の供養塔「草木塔」があり、その詩を作り、曲を付け「草木塔の歌」として皆で歌う。
日本には、素晴らしい教師もいれば、すごい教育をやっている学校もある。和尚も小学校時代、高校時代にお世話になった先生のご恩は忘れられない。二井宿小学校の子供達、先生達、地元の皆さんに拍手だ。合掌

阪急トラピックス 四国4回 17番井戸寺~23番薬王寺

平成21年7月7日

七夕の火曜日、守口から16名のお客様と阿波の最終コースへ出発。和尚と一緒だったという方が5,6人いらっしゃった。添乗員は杉谷女史一人、バスは商都交通(高野ドライバー)。遍路ころがしのお山、20番鶴林寺、21番太龍寺を初日におまいりしようと計画、まずは17番井戸寺から。七佛薬師に圧倒され、日切り大師の面影の井戸に映る姿に安堵しつつ、鶴林寺へ。本堂で勤行中に強烈なにわか雨に遭い、ずぶぬれになりながらバスへ戻る。中型バスの利点で、大型では通行できない最短ルートを走り、太龍寺ロープウェイへ。せっかくのロープウェイも霧に包まれ、視界零。西の高野といわれるように大師堂は、高野山の奥の院と同じ様な配置になっている。先着のお遍路さんが、拝殿前でお勤めをし帰ろうとするのを見て、うらに廻ってご廟を拝んだらとお勧めする。そして本坊廊下天井の大龍画を鑑賞してロープウェイへ。20分間隔で運行のため、乗車時間の1時間後に山頂駅から下るのがいつものパターン。帰路の車窓から弘法大師の禅定のお姿がかすかに見えて、歓声があがる。
弘法の霊水、白水の井戸で名高い22番平等寺を打って、宿の徳島グランドホテル偕楽園へ。
この日は、3台のバスが出ており、先達3人、添乗員2人で部屋で懇談会。なかなかこんな機会はないのだが、結構前向きな話しが多く、お互いに参考になる一時だった。
8日の朝は、ゆったりとしたスタート、8時半に18番恩山寺に向け出発。屋島の戦いに際し、源義経が上陸したのが、この地点で石碑が立っている。また、近くの丘には、義経の馬上姿の大きな像がある。
この寺は、大師の母君ゆかりの寺で、大師堂に隣接して玉依御前の剃髪堂がある。
立江の地蔵さんで名高い19番立江寺では、阿波の関所寺として有名な黒髪堂を拝み、23番薬王寺へ。全国的に有名な厄除けの寺で、「鳴門秘帳」や「空海のある風景」などの舞台ともなっている。
和尚にとっては、師僧である砂原秀遍東寺長者の修行の寺であるので、感慨深い。還暦坂を登り、瑜祇堂で五智如来の解説をし、上層から海亀産卵の日和佐の海を愛でる。昨日とは打って変わり、上天気で絶景である。薬王寺会館で食事の後は、一路大阪へ。こじんまりとして、とても良い巡拝だった。合掌
                                                       
黒髪堂縁起
石見(島根)浜田の城下の櫻屋銀兵衛の娘お京、大阪新町で芸妓をしているうちに要助という男と結ばれ、21歳の時に故郷に帰り夫婦となった。やがてお京は、鍛冶屋長蔵と密通し、長蔵をそそのかして夫要助を殺し丸亀に逃げた。享和2年(1802)のお京27歳のことで、追ってから逃げるためか二人は遍路になって札所巡りをはじめ、立江寺に着いたのは享和3年春夕方のこと。本堂にぬかずくやいなや、お京の髪は逆立ち、本堂の前にたれている鉦に巻き上げられて、お京は高く吊り上げられてしまった。住職に助けを求めると、住職はことの次第を尋ね、お京が懺悔すると黒髪もろとも肉は剥げ、鉦の緒に残り、一命は助かった。その黒髪を祀る。二人は真人間になって近くの吉田山に庵をむすび、仏道に精進したという。(お京庵)

2009年7月8日水曜日

千手観音に導かれ(さぬき国分寺と五色台二寺)


平成21年7月6日

ひょんなことから香川県坂出駅に降り立った。時間があるので、お参りをと思い立ち駅前のレンタカー屋さんで車を借りて、3ヶ寺廻った。80番国分寺、82番根香寺、81番白峰寺でいずれも千手観音がご本尊だ。国分寺のご本尊は、十一面千手観音だが御真言は「おん ばざら たらま きりく」だから千手観音に重点が置かれていることになる。重文のご本堂の中に、中央に十一面千手観音、向かって右に不動明王、左に弘法大師が安置されている。大師堂は、納経所と一体になっている。広い境内には、往年の七重塔の礎石なども点在し、かっての豪壮さがしのばれる。
根香寺の仁王門の左山側に「牛鬼」像が立っている。弓の名人山田蔵人高清に退治されたという怪物である。仁王門をくぐると石段で一旦下り、また上る。「さぬき六景」の石碑があるように、新緑に抱かれた参道は美しい。弘法大師と甥の智証大師ゆかりの寺で、高松藩主松平頼重公が再興した際に天台宗に改宗させたとか。
白峰寺は、崇徳上皇のご廟(頓証殿)で有名。保元の乱で破れ、讃岐に流され9年後に崩御された。その哀しいエピソードは多い。参道のアジサイが最高だった。 (写真)

2009年7月3日金曜日

お四国の民謡 2 宇和島

宇和島おんど

空に浮かんだ 鶴島城を
ぐるり囲んだ 町模様
伊予の宇和島 十万石の
意気が波うつ 海のいろ
いっぺんキサイヤ オイデナセ ソレ
宇和島よいとこ オピデナセ

お国自慢は 和霊のまつり
街が湧きたつ 牛相撲
大漁祈願の 景気をつけて
港うずめる 幟船
(おはやし同じ)

戌年同行の会


平成21年6月29日

小雨交じりの天候の中、「戌年同行の会」の日帰り参拝ツアーが、9時に堺駅前を出発した。関西花の寺・天台宗「應聖寺」で沙羅を愛で、真言宗大本山須磨寺を参拝するコース。この同行の会は、先の戌年(平成十八年)の1月から一年かけてお四国を結願したメンバーの集まりである。堺方面の面々は、回を重ねる毎に親しくなり、結願後も交流を継続しようと結集したもの。2月の懇親会と6月の参拝が恒例化しつつあるが、第一回の懇親会から和尚に声がかかり、何度か添乗した先達として参加させていただいている。昨年は、「東寺の特別拝観と神光寺参拝」を企画、今年は、仏教稲門会のメンバーに一肌脱いでもらい、このコースとなった。「應聖寺」では桑谷祐顕住職は、叡山学院の講義で不在であったが、お母様の懇切丁寧な説明と奥様の抹茶のご接待で、皆、大満足。お昼は、ご紹介の「もちむぎのやかた」、これまた珍しく、大好評。そして、須磨寺に向かった。
塔頭「正覚院」住職の三浦真厳先輩が、門前でお出迎えいただき、約2時間近く、境内の歌碑・句碑などをはじめ本堂、大師堂などをご案内いただいた。
日頃のご研究の資料なども用意していただき感謝 、感謝の参拝となった。
手土産かわりに、和尚の「よう、おまいり」をお渡ししたのだが、7月2日に三浦先輩からお電話をいただいたという。和尚の本を読まれて、奥様が同じ善通寺一高の同窓だとのこと。しかも、奥様は和尚が同窓会関西支部の事務局長であることもご存知だという。慌てて、名簿を調べると、確かに総会のご案内を差し上げている。
なんという奇遇であろうか。ご縁はありがたし。 合掌(写真は應聖寺の涅槃釈迦像)

恩師の墓まいり

平成21年6月27日

6月20日に開催された母校善通寺第一高等学校同窓会関西支部の総会に、和尚の同期である高畑保夫、佐藤方義両君が出席してくれた。ちなみに和尚は、事務局長を仰せつかっている。話題になったのが、恩師西川謙三先生のことである、平成10年に亡くなられ、佐藤君が葬儀にも参列とのこと。2~3年前の息子さんのお便りに京都にお墓を建立したとあったという。お世話になった悪がき3人、墓参りに行く事となった。同期のお姉さんにあたる上田利江先輩も同行したいと言うので、京都駅に集合し和尚の車でお墓のある東山「本山興正寺・霊山本廟」に向かった。
寺務所で、尋ねると若い尼僧が、案内をしてくれた。墓石を洗い、しきびを生けて読経し帰ろうとすると、寺務所から老僧が出てきて、「お話をききたいので、お茶でも」と引き止められた。問われるままに、「善通寺一高の教え子です」と答えると、なんと老僧は、昭和31年~34年母校で教壇に立ち、恩師と机を並べていたと言うではないか。すると上田先輩が「楠先生、私の担任でした」と声をあげた。それからしばらくは、昔話に花が咲いた。恩師西川先生は、生徒には厳しいが、暖かく、親身に面倒をみていただいた。しかし、職員室では、変骨で名高く、そのお陰か転勤知らず、定年までの25年間母校で英語を教えてくれた。
恩師の法名は「釈善一」。法名に母校の略称が使われているのを見て、涙を禁じえなかった。また、最初に我々をお墓に案内してくれた尼僧さんも、15年前に母校を卒業した同窓と聞き、ご縁の深さに驚くばかり。 合掌

お四国の民謡 1  庵治

庵治の民謡

舟かくし

よろいに残りし 香りやあわれ
舟をかくして きんだちは
いずちの山に いりたもう
今日も渦まく あおいしお
悲しや平家の 舟がくし
サノヨサノサヨ サノヨサノサヨ

かげをやしまは いりえにうつす
月があれば 銀の渦
黒かみながき 姫のたつ
扇の的ば いてみよと
おぼろの夢や 舟がくし
サノヨサノヨ サノヨサノヨ

結願(阪急トラピックス 中部 第8回)


平成21年6月23~24日

名古屋からのバス(一行29名)に西宮名塩SAからアシスタント吉井君と乗車、添乗員は上林嬢、バスは西濃華陽観光(野崎ドライバー)。まずは昼食、鳴門国立公園内の「うづ乃屋」。丁度、大潮とあって観潮船が数隻出ていた。
83番一宮寺、84番屋島寺、85番八栗寺と周り、宿は庵治観光ホテル。さぬき市の先達、櫻谷和香女史が焼酎とおつまみを差し入れしてくださった。櫻谷先達は、和尚の先達としての姉弟子にあたる。和尚に先達になるようになるように勧めてくれた故六車法善師のお弟子で、和尚夫婦も何度かバスでご指導を受    けた間柄。 24日は、さぬき市の結願コース3ヶ寺。86番志度寺、87番長尾寺、そして結願所88番大窪寺を打つ。
88番での記念撮影、1番での写真と比べると、皆、とても良いお顔になっているはずだ。また大窪寺は、和尚の先達としての推薦寺でもある。槙野恵純住職にご挨拶に行くと、皆さんでと「鈴の音紀行」(和菓子)を4箱もいただいた。昼食会場の「飛猿閣」で配らせていただいた。こちらにも「よう、おまいり」を置いてもらっている。お買い上げいただいた方に、せっせとサインさせていただく。ありがたし。
合掌

ご縁(読売奈良・四国9回 41番~45番)


平成21年6月21~22日

読売旅行奈良営業所主催のお四国バスに添乗。
第8回にも添乗していたので、40名中30名は同じ顔ぶれ。
今回は、前回と話がダブらないように気をつけた。添乗員は、石津・沖のさわやか青年コンビ、バスは奈良観光バス(喜多ドライバー)。初日は、バス遍路では最大の難所45番岩屋寺から、最低30分は、山道を歩かなければならない。皆、汗だくになりながらの参拝で、最後にたどりついたのは、80歳を超える木村のおばあちゃん。権大先達の資格を持つ。岩屋寺の大西完善住職は、早稲田の先輩で「関西仏教稲門会」のメンバー でもある。納経所を訪れ、ご挨拶。44番大宝寺門前「すごうさん」でお茶のご接待を受ける。和尚の「ようおまいり」も置いてもらって懇意にいていただいている。
ホテル奥道後に泊まり、2日目は、源氏ゆかりの43番明石寺、弘法大師が唐から投じた宝珠が起こりの42番佛木寺、神仏同居の41番龍光寺と打って真珠会館で昼食。
森田澄江社長に、いつもいただくハンカチを選んで四方山話しをする内に、共通の友人の名前が飛び出した。
早稲田の稲吟会(詩吟クラブ)で同期の井上三郎君である。彼は軟式野球部にも籍を置いていたと記憶するが 、卒業後地元の新聞社愛媛新聞に編集記者として入社、最後は広告局長を務めた。和尚の電通時代に松山ロータリークラブで欧米のシルバービジネスに関する卓話の機会があったが、彼が駆けつけ記事にしてもらったり、お遍路本の編集を彼が手がけている時には、先達として取材を受けたこともある。
そんな親しい彼と高校の同級生というでは、ないか。そうすると私とも同じ年ということになる。ご縁とは不思議なもの、本当に世間は狭い。一遍に、旧知の友のように打ち解けた。
お土産にと、真珠会館オリジナルで、ここでしか販売しないというチョコレート菓子「パール スイート クランチ」(15個入り・630円)をいただいた。「宇和島市推奨品」で、ひとつひとつ包装されているところから、出張のお土産として皆に配るのに便利と、良く売れているとか。歯ざわりがサクッとして美味しい。
そうそう、龍光寺門前の「風月庵」で和生菓子「福印黒糖饅頭」と「福印吹雪饅頭」のご接待をいただく。 黒糖饅頭は、漉し餡と黒糖、吹雪饅頭は、粒餡と山芋粉がアレンジされているが、結構大きくて好評のようだ。ご縁に感謝、感謝の遍路旅であった。 (写真は岩屋寺大師堂・重文)          合掌