2009年7月25日土曜日

寿稜墓の開眼

平成21年7月25日

大和郡山市小泉の共同墓地で、平野家の墓碑の開眼法要をおこなった。今納めるお骨はないということなので、まさしく寿稜墓ということになる。生前葬と同じで、おめでたいことだ。法要中に強い雨が降ったり、止んだりしたが、元ラガーの和尚は、雨には強い。ラグビーは、全天候スポーツだから、雨でも当たり前に試合をしていたからだ。
今は、寿稜墓などと称したりしているが、かっては逆修塔などとも言われていた。逆修塔といえば、35番清瀧寺に高岳親王(真如)の逆修塔がある。
平城天皇の第三皇子高岳親王は、嵯峨天皇の皇太子となったが「薬子の乱」に連座したとして、その座を奪われ、出家して空海の弟子となり真如と名のった。貞観3年(861)入唐の前年に当寺を訪れ逆修塔を建てた。すでに高齢で、死を覚悟しての入唐で「私が印度で果てても、魂は、この五輪の塔の下に帰って永く寺を守り、多くの人を救う」という意の言葉を刻んで旅立った。唐から印度を目指す途中、ラオスで虎に襲われて果てたという。空海十大弟子の一人。

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