平成21年6月9日
梅田を経由してバスは難波を8時15分に出発。豊岡添乗員、堀アシスタント、日本交通バスの森本ドライバー、中村ガイドそして和尚の5人チーム。お客さんは36名。
淡路SA,鳴門西PAで休憩後、12番焼山寺に向かう。焼山寺は、「遍路ころがし」といわれる険しいお山のひとつ。鮎喰川を上流まで上ったところでマイクロバスに乗り換え山頂へ。
途中に「杖杉庵(じょうしんあん)」がある。
「杖杉庵」は、遍路の元祖と俗説にいわれる衛門三郎の終焉の地。衛門三郎は、伊予松山郊外荏原郷に屋敷を持つ長者であったが、強欲で托鉢にきた空海を二度に渡って追い返し、二度目は、竹箒で空海の持つ鉢を叩き割る。鉢は八つに割れたという。三郎には8人の子供がいたが、翌日から毎日一人づつ亡くなり、皆亡くなってしまった。三郎は、ようやく自分が手にかけた僧が空海だと悟り、一目あってお詫びがしたいと後を追うのである。しかし20周廻っても会うことができず、そこで逆に歩けば会えるに違いないと、今で言う「逆打ち」を試みる。死を目前にした三郎がようやくめぐり会えた地がこの「杖杉庵」の場所なのである。
両手をついて懺悔する三郎に、罪障消滅を告げ、来世の望みを聞くと「国司の家に生まれかわりたい」という。そこで小石に「衛門三郎再来」と墨書して手に握らせ、埋葬して墓標代わりに金剛杖を立てたが、その杖から根が出て大きな杉に成長した。その故事にちなんで「杖杉庵」というのである。(今の杉は2代目とか)
後年、伊予の国司、河野家に男児が誕生する。しかしいつまでたっても、握った手を開かない。心配になった国司が、菩提寺の「安養寺」の住職に頼み、加持祈祷をしてもらうと子供は手を開き、中から「衛門三郎再来」と書かれた小石がころがりでた。その奇縁により「安養寺」は「石手寺」と改称、それが51番札所。
そんな話をしながら上りきると駐車場、山門までの整備された参道の山側斜面には、不動明王を始めとする数体の大石仏が寄進され安置されている。独特の雰囲気だ。境内には、樹齢数百年級の杉木立が林立し、訪れるものを圧倒する。虚空蔵菩薩をまつる本堂右には新築の大師堂、左には三面大黒天堂。本日の打ちはじめなので、本連念珠の使い方、3通りの合掌を解説しおまいり。
13番大日寺までの車中でお弁当を食べていただきながら、寺の縁起を説明する。大日寺なのになぜご本尊は、十一面観音なのか?とか「幸せ観音」、そして本堂の柱に残る「横綱大鵬」の納め札・・・
14番常楽寺の境内は、別名「流水岩の庭」と称せられるように急流の川底状になっている。また、お四国では唯一、ご本尊は弥勒菩薩。アララギの大木の幹の枝分かれの空間に石造の大師像が安置されている。(アララギ大師)
14番から15番国分寺までの800mは、まったくの歩き遍路。途中にある「真言八祖」を祀るお堂で、一旦皆を掌握し、おまいり。本堂の「リン」を使って叩きかたの説明、「リン」の円を時計の文字盤に見立て、7時のところを打ちから外に甲乙(強く弱く)に2打する。(意外と知られていないが、和尚は大学の道場で厳しく指導を受けた。)大師堂でのおまいりの際に、練習してもらった。この寺で頒布する大判の「うすさま明王」のお札を求める方も。(大師が唐から請来した明王で、トイレに貼る。下の病に効能)
16番観音寺の本堂も近年新築されたもの。旧本堂の古材を随所に使用している。大師堂の右には「夜泣き地蔵」も。この寺には、大師直筆の光明真言の梵字の印版が伝わり、白衣(道中衣)の両襟に半分づつ刷り込んでもらうことができる。(1500円)おまいり後、6人ほどが、列をなし、それを待って帰路に。
阪神高速の渋滞もなく19時過ぎには、難波に帰着。電通の先輩の友人や、隣町香芝在住の方も同乗で、今日もまた、良いご縁をいただいた。合掌
2009年6月12日金曜日
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